6度目の五輪出場へ…46歳で2020東京を目指す武田大作の気概

武田大作。1973年12月5日生まれ。2018年5月時点で44歳という現役のボート選手だ。1996年のアトランタ五輪から5大会連続で五輪出場。日本選手の夏季五輪出場は馬術の杉谷泰造が最多の6回。アーチェリーの山本博と柔道の谷亮子、そして武田が5回でこれに続く。2016年はリオデジャネイロ五輪の代表選手選考会にすら出場しなかった武田にいま、なにが…。

「ボートはゴールに背を向けて進む特殊なスポーツだから、ゴールを見なくても自分を信じられるだけの練習をすることが大切になる」 撮影=山口和幸/PRESSPORTS

2018年5月20日、戸田漕艇場で第40回全日本軽量級選手権が開催された。軽量級とは男子の場合、こぎ手の平均体重が70kg以下、1人乗りのシングルスカルなら72.5kg以下の選手が出場するカテゴリーだ。欧米のパワフルで大柄な選手以外でも活躍の場が広がるようにと採用された。武田はこの軽量級カテゴリーで日本漕艇界の歴史をことごとく塗り替えてきた選手だ。

本当に久しぶりに再会した武田は開口一番、「(昨夜の)ジロ・デ・イタリア、勝負どころのゾンコランでしたね」と相変わらず、大好きな自転車ロードレースの話題から切り出した。そんな世間話のあと、唐突に「じつは2020年の東京をナイショでねらっているんです」と明かした。

「ボート競技は、水をかくっていう感覚じゃないんです」
オール先端部のブレードを砂浜に突き立てて競技の本質から語り始めたのは、雑誌ターザンで愛媛県松山市の梅津寺海岸まで取材に行った2002年末だった。
砂をキャッチしたポイントは作用点に当たる。ブレードはそこに固定され、オールを引けばテコの原理でボートが推進する。まるで雪壁にピッケルを打ち込むようなダイレクト感がある。だから競技ボートの加速力は、公園のボートで水をかき回すのとは全然違うのだ。

ボートを始めた高校時代からトレーニングフィールドにしている梅津寺海岸は、田中麗奈のデビュー作となった映画「がんばっていきまっしょい」のモデルとなった場所だ。高校で女子ボート部を作った主人公の奮闘ぶりを描いた映像は、まさにこのこじんまりとした海水浴場で実際に演じられたストーリーだという。

「世界選手権などの国際大会から帰ってくると、芝生からデコボコのグラウンドに戻った感じ」と武田は大きく笑い飛ばした。それもそのはずだ。通常ボートを走らせる場所は静水の漕艇場だから、うねりのある海を使うのは世界中でもあまり例のないことだ。かつて武田の練習ぶりを見習おうと若手選手がここを訪れたとき、戸惑った末に、こう言ったという。
「武田さん、質問があるんですけど。どこで練習するんですか」
「ここでやればいいじゃん」
「でも波がありますよ…」

未来のボート選手と元五輪代表選手らが記念撮影

愛媛県伊予市、みかん農家の次男として生まれた。小学校時代は野山を駆け回るのが大好きで、長い距離を走ったら負けなかったのが唯一の誇り。低学年のときから6年生といい勝負をした。自転車で誰も登れないような坂を登れるのが自慢だった。
「球技はヘタだったので、自転車かマラソンでしか勝負できないと思ってた」

1984年のロス五輪、カール・ルイスが100mで9秒99を出して金メダルを取ったとき、初めて五輪という存在を知る。11歳のときだった。
「そのときは選手として出るのは難しそうだから、スタッフで出場しようと…」
港南中学で陸上部に入り、長距離をこなした。愛媛大付属農業高校に進み、陸上部がなかったのでボート部へ。その理由は、「山育ちなので海に憧れたこと。ボートはみな初心者で、スタートが一緒なのでやれるんじゃないかなと思った」からだ。

アトランタ五輪で武田を含む日本勢が惨敗し、応援に来ていた父親に、「世界を相手に勝負できなかったのだから、こんな下らんことやめろ。それよりも農家をしたほうがいい」と言われた。それまでも、全日本選手権で2位になって帰ると怒られたほどだ。「あれほど家を空けて金を使って遠征をして」。武田は「シドニーで軽量級になって、結果残せなかったらやめるから」と宣言した。

「アトランタのときに親から、海外選手より弱々しいと言われた。ああそうか、筋力がないのかと。それじゃあ体幹を強化しよう。末端部はどうでもいいだろう。スポーツで重要なのは軸がぶれないこと。自転車のロードレースでも同じですよね。上りでダンシングするときに自転車は左右に大きく振れるんですけど、ツール・ド・フランスで勝つような強い選手は身体の中心がピタッと決まっている。ボートも基本は同じ。それができる動きを意識してやっていこう」と作戦を立てた。

1964東京五輪の会場だった戸田漕艇場は現在の国際大会を開催する基準に満たないことから、2020年は新設会場の海の森水上競技場で行う

こうして挑んだシドニー五輪で、ついに日本勢として初めて決勝の6艇に残った。
直前で288cmのオールを287cmに変更した。「基本的に何かを変えようというときは調子悪いとき。そのときにオレは6位になるのかなと覚悟した」
案の定、そうだった。終わった瞬間に「ちくしょー、4年後待ってろ」と空に向かって叫んだ。勝てなかったことに腹が立った。

2004年のアテネ五輪でも前大会と同じ決勝進出で6位。2008年の北京五輪は13位。2012年のロンドン五輪で12位になると、ナショナルチームから身を引いた。それでもボートはやめず現役を続行。2016年はリオデジャネイロ五輪の代表選手選考会にも出場しなかったが、直後に側近にはこう打ち明けている。
「2020年の東京はねらっていく」

第40回全日本軽量級選手権では男子シングルスカルでいきなりリオデジャネイロ五輪代表の大元英照と予選で同組になった。つまりはこの大会のナンバーワンとナンバーツーが同じ組になってしまったのだ。案の定、武田は大元に及ばず2着で敗者復活戦へ。しかし持ち前の実力を見せつけて敗者復活戦を順当に勝ち上がると、準決勝で1着になりファイナルAへ。その決勝では序盤の500mこそ互角だったが、7分44秒88のタイムで第一人者の大元に及ばず準優勝した。

全日本軽量級選手権の男子シングルスカル決勝を終えて、表彰式のあるコースサイドまでゆっくりとこぎ進む
全日本軽量級選手権の男子シングルスカル。左から2位の武田大作、優勝の大元英照、3位の安井晴哉

レース後に言葉を交わした。前年に左脚にばい菌が侵入してしまい、脚を失いかけるほどの重症になっていたということを、なにごともなかったかのように話す。入院を余儀なくされ、オフの間も十分にトレーニングができなかったようだが、ここにきてようやく脚の筋肉も増えてきたという。心肺機能は年齢相応に最大心拍数が低下傾向にあるものの、それでもパフォーマンスは依然としてハイレベルの領域を維持する。

東京五輪が2年後に迫った現在、武田は愛媛県で高級ビワやミカンを生産する農業に従事しつつ、ボート競技の練習を続ける。家族からは「いつまで続けるの?」と言われるときもある。それも夢を追う。五輪では軽量級シングルスカルがなく、2人乗り・両手こぎのダブルスカルで出場権を取るしかない。いつもどおりなら日本代表はシングルスカルの1位と2位。代表枠は射程距離である。

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