100周年シマノの黒歴史…エアロの失敗があってこそ世界最強に

2021年3月に創業100周年を迎える大阪府堺市の自転車パーツメーカー、シマノツール・ド・フランスのニュートラルメカニックを担当する。国際自転車競技連合やジロ・デ・イタリアではすでにその要職に就いていたが、歴代経営陣が夢見た最高峰のレースでついに実現。現在は世界最強のパーツメーカーとなったシマノだが、欧州市場に打って出た当時は苦戦の連続。ターニングポイントは大きな失敗だった。

エアロ路線で失敗したシマノがその教訓を活かして成長するまで

創業者は島野庄三郎氏。長男尚三氏が跡を継ぎ、自転車部品の製造を事業の核として会社を大きくした。慶応大工学部卒の次男敬三氏が機能路線を推し進め、革新的な新製品を次々と発表。さらに低コスト・大量生産の原動力となった冷間鍛造技術をトヨタとほぼ同時期に開発している。

1973年に自転車レースの本場欧州市場に進出。前年に開発した最高級パーツの初代デュラエースをレース現場に投入した。しかし伝統メーカーの壁があって、シマノは苦戦を強いられる。

欧州市場で苦戦していたシマノが一気に攻勢を仕掛けたのが「エアロダイナミズム」を追求したデュラエースaxだ。1978年3月に発売されたEXから、2年たらずでのフルモデルチェンジだった。

「スポーツ車の分野で世界に出ていくためにはなにをすべきか。大きなイノベーションの導入だ。そのためには開発・商品構成・宣伝・販売を含めて全面転換しなければならない。それができるのはシマノしかない」

1979年の会議で決定した。すぐに全製品をエアロ化するための開発が急ピッチで行われた。徳島大をはじめ、大阪府立大、筑波大の協力を得て風洞実験を繰り返した。さらに50億円をかけて自社に巨大な風洞実験室を設置した。

わずか半年という開発期間で、最高級レーシングコンポのaxは発表された。あらゆるデータに裏打ちされた自信作だ。しかし市場の反応は非常に厳しいものだった。現在でこそ空気抵抗の軽減は重要な要素だが、当時としては飛躍しすぎていたのかもしれない。しかもパーツだけが前を行きすぎていた。

ブエルタ・ア・エスパーニャ ©PHOTOGOMEZSPORT2020

「これまでだれもやっていなかったものづくりへのアプローチ」。そういった意味でのチャレンジ精神は評価されるべきだが、市場の声を聞かない独りよがりな開発に酔いしれていたのだ。

「技術的に優れていれば商品は売れる」というエンジニアの考え方で押し通したのがax時代だともいえる。ある意味で市場の意見と要望を反映しないものづくりだ。その反省のもとに新設されたのが企画部だった。

市場リサーチを綿密に行い、開発陣とそれらの情報を共有する。単なる無謀なチャレンジではなく、成功を見すえたものづくりへと転換されていくことになる。「いつ、どの商品を、どのマーケットに、どのタイミングで」。創業時にはあったものの、忘れかけていた大事なことに気づいたのである。

企業としては大失敗となった「エアロ化」だが、これを陣頭指揮した島野敬三(創業者の次男で当時専務、後の3代目社長)がすべての責任を負うことを宣言し、エアロに従事していた社員が次なる商品へと情熱を注ぐチャンスが与えられたことに着目したい。エアロの失敗でそれぞれが「なにをすべきか。なにを重要視すべきか」を学び、冷静になって考えることの大切さを認識した。

「ややこしいのはいらない。きちんと動いて、壊れないものがほしい」と酷評した欧州市場ではあったが、axは自転車業界に強烈なインパクトを与えたことも事実だった。欧州主力メーカーも「シマノはここまでやるのか」と脅威を覚えた。再出発したシマノは市場のニーズに応えた新製品を次々と発売していく。

再出発したシマノは、市場の声を反映したZシリーズを発売。さらに105、600アルテグラ、そして7400デュラエースへとつながっていく。

1990年、7700系と呼ばれるデュラエースにセミオートマチック変速システムが導入された。ハンドルにつけられたブレーキレバーを左右にスライドさせて変速させる機構は、いまでは全グレードのパーツに導入され、世界標準となっているが、初めて考案したのはシマノである。

エアロ路線の失敗は現在も社内に残される

シマノの空恐ろしさはそれだけではない。一般的に見れば自転車の部品屋だ。ところが世界の自転車業界はシマノを中心に回っていると言っても過言ではない。シマノがユーザーの声や市場をリサーチして、起案して商品開発してパーツを発表する。そのリリースを受けて世界中の自転車メーカーが商品を考えるのだ。デュラエースをフル装備したモデルが最高級モデルで、同じフレームにセカンドグレードを装備したものがナンバー2モデルといった具合である。

さまざまな機能を盛り込んだシマノ製パーツは、開発力で他社の追随を許さない。他社がデザインを模倣できたとしても、ノウハウを結集させた製造技術なくしては勝負にならない。価格競争にも引きずり込まれることなく、ブランドの価値も決定づけられた。シマノの強さはそこにある。選手はパーツの性能を気にすることなく、走りに集中できる。シマノを使えば安心なのである。

創業者の三男喜三氏(写真)は4代目社長・会長職を歴任し、2020年7月に逝去。2021年2月に敬三氏の長男泰三氏が新社長に就任。世界的な自転車ブームにあって大躍進するグローバル企業をけん引している

堺市の敷地内に風洞実験室が完成したのは1980年11月。1981年末には「エアロ化」を推進した島野敬三(当時専務)が自らの失敗を認め、エアロ開発から撤退。実験室の扉は固く閉ざされ、その存在を口にすることもはばかられたという。しかし風洞実験室は1990年代まで残された。

「これを見てたまに反省するんや」と敬三が社員にもらしたこともある。天下統一をする前の徳川家康は三方ヶ原の戦いで大敗をした。自らの苦悩する表情を描かせた「しかみ像」は、熱くなりすぎた自分を客観的に見つめ直し、賢明な判断をするために利用したとも伝えられている。風洞事件室の名残である扉は現在でも工場の壁に残されている。

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≪コラム=山口和幸≫
ツール・ド・フランス記者。著書に『シマノ~世界を制した自転車パーツ~堺の町工場が世界標準となるまで』(光文社)をはじめとしたシマノ三部作。

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