【ツール・ド・フランスリバイバル】2014年はニーバリ初優勝

全体的に天候が荒れ気味の2014年ツール・ド・フランスは、アクシデントに巻き込まれた選手が相次いでレースを去っていった。同じ条件でありながらも、堅実に走り続けた実力者が栄冠のゴールにたどり着いた。総合優勝のビンチェンツォ・ニーバリ(イタリア、アスタナ)もヨーロッパカーの新城幸也も、まさに地に足をつけた自然体のスタイルだった。

第14ステージ、イゾアール峠を下るマイヨジョーヌのニーバリ

第5ステージの石畳区間でニーバリは早くも勝負に出た

ビンチェンツォ・ニーバリ。全21区間のうちマイヨジョーヌを着用したのはなんと19日だ。勝負どころの山岳では1日だけティンコフ・サクソのアルベルト・コンタドール(スペイン)に3秒負けたが、あとはライバルとのタイム差を広げるばかり。気がつけば前年の覇者クリストファー・フルーム(英国、スカイ)、3度目の優勝をねらったコンタドールらのライバルが不意の落車で大きく傷つき、レースを断念してチームカーに乗り込んでしまった。

2014ツール・ド・フランス

地元イタリアのリクイガス・キャノンデールに所属していた2年前、ニーバリはジロ・デ・イタリアをパスしてツール・ド・フランスに乗り込んだ。しかしブラッドリー・ウィギンスとそのアシスト役だったフルームに山岳ステージで封じ込まれた。イタリア自転車界の育成システムに乗り頭角を現したニーバリにとっても、かなわぬ敵が君臨することを初めて知る。

その翌年に心機一転。カザフスタンのアスタナに電撃移籍した。現役選手を引退して同チームの監督に就任することになったアレクサンドル・ヴィノクロフが次期エースとしてニーバリ獲得に動いたのだ。カザフスタン選手だけではツール・ド・フランスに勝てないと考えたからだ。

英国開幕のこの年、第1ステージのゴールスプリントで地元マーク・カベンディッシュがまさかの鎖骨骨折
第1ステージで優勝してマイヨジョーヌを獲得したマルセル・キッテル。第2ステージで脱落しても笑顔で声援に応える

ニーバリの天性に、怨念も含むヴィノクロフの冷静な判断力が加わって飛躍的にレベルアップを遂げたのは周知の事実だ。2013年にジロ・デ・イタリア総合優勝。そしてこのシーズンは連覇のかかるジロ・デ・イタリアをパスしていよいよツール・ド・フランスに照準を合わせて乗り込んできた。

優勝争いのキーとなったのは「北の地獄」と呼ばれる石畳区間を走った第5ステージだった。石畳はレース後半に設定されていたが、前日に右手首を痛めていたフルームが前半の舗装路で2度も落車。手首を骨折してリタイアした。そして石畳区間に入るとニーバリがアシストとともにアタックし、コンタドールに大差をつけた。結果的にはこれがコンタドールにプレッシャーを与えることになり、第10ステージの右足骨折でコンタドールも消えていった。

第9ステージでトニー・ガロパンがマイヨジョーヌ。敢闘賞のアテンドガール、恋人のマリオン・ルスと

結果的に総合2位とは7分以上の大差。これは1987年にヤン・ウルリッヒが初優勝したときのタイム差を超える圧勝だったが、全区間でニーバリにブレーキがなかったこと、そしてアスタナチームの総合力が抜群に高かったことが要因だ。

第14ステージでラファウ・マイカが優勝。さらに第17ステージでも優勝し、山岳王に

アスタナはすべてのアタックに対して大逃げを容認することがなく、メイン集団の先頭に立ってコントロールした。山岳の上りでもジロ・デ・イタリア優勝経験のあるスカルポーニらがけん引役を務めた。ニーバリは最後の山岳で温存したパワーを発揮するだけでよかった。ニーバリがアタックしても、総合2位ねらいのティボー・ピノ(エフデジュポワンエフエル)やジャンクリストフ・ペロー(AG2Rラモンディアール)のフランス勢は追走しなかった。

29歳にしてグランツールを全制覇したニーバリ。次なる目標は世界選手権。イタリアチームのエースとして6年ぶりのアルカンシエル獲得に挑むという。

左から新人賞のティボー・ピノ、総合優勝のニーバリ、ポイント賞のペテル・サガン、山岳賞のマイカ

世界最高峰のこのレースを代表する選手になった新城

新城幸也は総合65位で、自身が2012年に記録した84位を上回る日本選手の最上位記録を更新。5度の出場ですべて完走。ジロ・デ・イタリアの2回を加えるとグランツール7回出場で全完走という安定感を見せた。

第5ステージ、雨の石畳を走るトマ・ボクレールと新城幸也

2014年の新城は安心感があったし、実際に休息日に訪ねてみてもこれまで以上にリラックスしていた。初出場となる2009年は集団スタートの初日に区間5位になったことが結果的に重圧となり、精神的に追い詰められた状態での戦いを余儀なくされた。しかし、出場回数を増すごとに新城自身が「一番楽しみにしているレース」というこの大会でどう走ったらいいのかを知ることになる。

この年は、記録の上では派手な数字はないが、23日間を通して存在感を見せつけた。アルプスやピレネーの山岳ステージで一度もグルッペットでゴールしなかったのは、ツール・ド・フランスの走り方を知り尽くしている証拠だ。

ピレネーの第18ステージでも新城幸也はエースのボクレールを援護した

安定感のある走りは視野の広さを提供する。そのステージのどこに知り合いのカメラマンがいたか。日の丸を掲げている人がどこで応援してくれたか。すべてがよく見えている。世界最高峰のレースだからとムキにならず、自然体でなにごともなかったかのようにパリ・シャンゼリゼにゴールする。区間勝利はなかったが、その実力は世界レベルに上り詰めた。

フランス南西部は一面のヒマワリ畑が広がる

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【ツール・ド・フランスリバイバル】2013年の100回大会でフルーム初優勝

第100回ツール・ド・フランスはスカイのクリストファー・フルーム(英国)の圧勝だった。窮地があったとすればハンガーノックになったラルプデュエズで、そのゴール後に、「好感度を高めるためにわざと?」という質問さえ飛び出るほどで、フルームはキューピーのような屈託のない笑顔で「そんなことはないよ」と返すのだった。

最後の山岳でも上りのスペシャリストを逃がすことなくフルームがマイヨジョーヌを死守

日本でプロ初勝利を挙げたフルームが記念大会を制覇

ホテルでの立ち話やゴール直後のフランス語によるインタビューを聞く限りは好青年だ。そのフランス語はたどたどしくも一生懸命で、「うん、だからそうなんだよね」と司会者も助け船を出したくなる。

ツール・ド・フランスは100回大会で初めてコルシカ島を走った

日本のファンにしてみれば、プロ初勝利は2007年のツアー・オブ・ジャパン伊豆ステージで、親近感もあるだろう。もっと言及するとそのレースでスタート直後に飛び出したのがNIPPOに所属していた新城幸也。フルームは終盤に新城を逆転し、それでも新城は執拗に追撃をかけるがフルームに逃げ切られているのだ。

コルシカ島に日本チャンピオンジャージで姿を現した新城幸也

2012年の最終日前日、ボクはスカイチームと同宿で、エースのブラッドリー・ウィギンスがマイヨジョーヌを確実にした祝宴の席で、フルームとウィギンスの席がずいぶん離れていることを目撃した。最終日の朝には、ボクの部屋の前でカチューシャの監督がフルームを呼び止めるのだが、「ちょっと話があるので部屋に来ないか」という内緒話がつつ抜けだった。

わずか10分でフルームは部屋から出て行ったので、移籍には至らないなと推測できたが、朝食の会場ではボクの立ち話に付き合ってくれ、「来年もスカイでがんばるよ!」とさわやかな口調で話してくれたのだった。

ラルプデュエズのオランダ人コーナー

そういった人当たりのよさを見せながらも、ロードバイクにまたがると別の側面がかいま見られる。2012年は遅れがちなウィギンスを振り返りながら「ついてこられないの?」とばかりの手振り。2013年も下りコーナーで制御不能に陥ったコンタドールに接触しかかって、「無謀なことはするべきじゃない」と内面をチラリと露呈させた。

勝てるところは全部持っていくという強い執念も感じる。ケニアのナイロビで生まれ、南アフリカで育ったという特異な境遇をもつフルームが、どんな考えを秘めてこのスポーツに没頭しているのか。2連覇がかかる2014年の大会とともに興味深いところなのだ。

最終日前日の最後の山岳でキンタナが区間初勝利
最終日の午前中、パリへのフライトでくつろぐフルームとチームメートのリッチー・ポート

日本チャンピオンの新城幸也が再びアタックを敢行

全日本チャンピオンの新城も存在感を示した。日本で国際映像を見ているとたまにしか登場しない歯がゆさもあっただろうが、現地ではマイヨジョーヌなどの実力者に劣らない人気ぶりだった。純白を基調とした日本のチャンピオンジャージは大集団の中でも際立つもので、沿道の地元ファンから「シャンピオンデュジャポン!」「ユキヤ・アラシロ!」と至るところで歓声がわき起こった。

4賞ジャージ。右からポイント賞のペテル・サガン、総合優勝のフルーム、山岳賞のキンタナ(新人賞も受賞)

目の肥えた欧州ファンは、ひいき選手が勝つところを見に来るわけじゃない。その選手のファイトが目の当たりにしたいんだ。ボクがツール・ド・フランス取材を始めた25年前、まずはこう教えられた。その言葉は今も普遍の真理で、新城がこれほどまでの気概をもって走る雄姿をこれまで以上に頼もしく感じた。

目標としていた優勝ができなかったのは、だれよりも自身が一番悔しいはず。落車によって強打した肋骨2本にヒビが入っていても、笑顔でそれを押し隠してスタートしていく。「シャンゼリゼの石畳は肋骨によくない」と思わずもらすのだが、苦悩や努力を決して人には見せないのが新城なのかも。

ツール・ド・フランスの最終日はパリ!

ボクたちは新城が勝つところが見たいんじゃないんだ(見たいけど)…。そのガッツが見たいんだからこの年も大満足だ。

ボクのツール・ド・フランス取材も25年。劇的に変わったのはインターネットの普及による報道の高速化。科学的トレーニングを導入してコンディショニングして乗り込む選手。チームバスに代表される快適なインフラの整備。カーボンコンポジットはあの時代からあったが、スプロケットは7段から11段へ(当時)。おそらくこういった有形なアイテムは飛躍的に進化した。

第5ステージで新城幸也がアタック。一時はバーチャルマイヨジョーヌとなった

変わっていないこともある。沿道で待ち構える観客の笑顔。ラルプデュエズの坂道のキツさ。パリにたどり着くことなくリタイアしていく選手の無念。そして夏のバカンスというワクワク感とともにやってくる一大スペクタクル。

第100回大会とて、あまり肩肘を張ることなく普通にやってしまうのが伝統の重み。きっと100年後も、機材の進化はあれどみんなのワクワク感は変わらないんじゃないかな。

第5ステージでアタックした新城幸也。ゴール後にて

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【ツール・ド・フランスリバイバル】2012年、ウィギンスが英国勢初制覇

2012ツール・ド・フランスはスカイのブラッドリー・ウィギンスが総合優勝し、英国に初めてのマイヨジョーヌをもたらした。2年ぶり3度目の出場を果たした新城幸也は第4ステージで敢闘賞を獲得。3回目の完走を2時間29分13秒遅れの84位という日本人歴代最高位で決めた。

東京中日スポーツの一面に新城幸也の記事が

遅れ気味のウィギンスにいらだちを見せたフルーム

薬物使用によるコンタドールの出場停止、アンディ・シュレックの欠場により、マイヨジョーヌ争いは開幕時点で絞り込まれていた。連覇をねらうオーストラリアのカデル・エバンス、総合力のあるウィギンス、ジロ・デ・イタリアをパスしてこの大会に照準を合わせてきたイタリアのビンチェンツォ・ニーバリだ。

優勝争いが動いたのは本格的な山岳初日となる第7ステージ。この時点で総合2位につけていたウィギンスは、アシスト役のクリストファー・フルームの援護を受けて最後の坂に。しかしライバルであるエバンスとニーバリも離れなかった。ところが献身的なアシストをこなしたフルームがゴール手前300mで抜け出して初優勝。ウィギンスはマイヨジョーヌを獲得するのだが、エバンスとともにそのスパートについていけなかった。

ブラッドリー・ウィギンスが英国勢として初めてマイヨジョーヌを手中にした

ある意味で大会を象徴するようなシーンだった。山岳ではアシスト役のフルームのほうがウィギンスより強かったと言える。フルームは物腰のおだやかな、人のよさそうな普段の性格だが、ロードバイクに乗ると意外と野心的な部分をさらけ出し、その後もウィギンスのアシストをこなしながらも区間勝利へのこだわりをむき出しにした。

マイヨジョーヌ争いはウィギンスが2回のタイムトライアルで圧勝し、エバンスが山岳ステージで陥落。フルームから遅れ気味のウィギンスもニーバリのアタックを封じ込めたかたちで決着を迎える。こうしてウィギンスは第7ステージで手にしたマイヨジョーヌを一度も失うことなく、フルームに手渡すこともなくパリ・シャンゼリゼにゴールした。

連日の果敢な走りで人気者となった新城幸也

第99回大会の話題を2つ挙げるとすれば、英国選手の初制覇と新城の活躍だろう。それは現地プレスセンターや沿道の総意といっても過言ではなく、それだけ英国スカイチームの完勝ぶり、そして新城の連日のアタックは注目された。

プロローグを制したカンチェラーラが大会7日目までマイヨジョーヌを着用した。ウィギンスはずっと7秒差の2位につけていた。優勝争いが動いたのは第7ステージ。最後に激坂が待ち構える本格的な山岳初日だった。

ウィギンスのアシストだったフルームだが、ラプランシュデベルフィーユでツール・ド・フランス初優勝

この日、ウィギンスはアシスト役のフルームの援護を受けて、最後の坂に。ライバルであるエバンスとニーバリも離れない。すでにマイヨジョーヌのカンチェラーラは脱落していて、そのままタイム差なしでゴールすればウィギンスがマイヨジョーヌを獲得する。

フルームがツール・ド・フランスで初めてステージ優勝したのがこの日だった。エバンスとウィギンスはそのスパートについていけず、2秒遅れでゴール。ニーバリは2人からさらに5秒遅れた。

ブラッドリー・ウィギンスは個人タイムトライアルでパワーを見せつけた

「マイヨジョーヌの行方はすでに決しているのだから、そんなに速く走る必要はないんだよ」と、先を急ぐフルームから遅れがちだったことを弁明したウィギンス。

「エースのプレッシャーがないからうまく走れたのだと思う。もっと経験を積んでこのチームで夢をつかみたい」と優等生的なコメントを発するフルーム。両者の心中に秘められた本音を想像するとじつに2012年の大会は興味深い。

ペテル・サガンがツール・ド・フランス初優勝を含む3勝を挙げ、初めてマイヨベールを獲得した
最終日の朝、スカイチームのスタッフがおそろいのTシャツで記念撮影

新城幸也が日本勢として初めて表彰台に登壇

新城の存在感も現地ではウィギンスに負けていなかった。豪州の草分け的元選手、フィル・アンダーソンは「毎日アタックしていた日本選手がいたね。彼は来年期待できるぞ」と語った。フランステレビジョンは「ユキヤ・アラシロは今年、フランス人が一番よく知る日本人になるだろう」とコメントした。

まさに獅子奮迅の大活躍だった。ボクレールのアシスト役として走りながらも第4ステージで敢闘賞。第18ステージでゴール手前までトップ集団で激しく戦った。

3回目の完走を日本人歴代最高位というおまけ付きで決めて、コンコルド広場で日本の取材陣に囲まれて最後のインタビューをしているとき、総監督のジャンルネ・ベルノードーがタイミングを計ってその輪に加わってきた。

第4ステージで新城幸也は敢闘賞を獲得した

「どうだ、見たか。今年の活躍を。来年はうちのチームで初めてツール・ド・フランスで勝つ日本選手になる」

他チームの引き抜きに遭わないように取材陣を意識して語った言葉だ。

英国のベテランカメラマンが「ツール・ド・フランス取材を初めてかれこれ何十年で、ようやく自国選手が総合優勝したのだから感慨深い」とつぶやき、新たな時代の到来を歓迎した。日本自転車界も風が変わろうとしている。日本選手が総合優勝を争うようになるのは果たしていつ?

ヨーロッパカーの新城幸也が2年ぶり3度目の完走を果たした

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ツール・ド・フランス歴代記録集(1903年から2023年まで)

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●個人総合優勝回数
5勝
ジャック・アンクティル(フランス)1957,1961,1962,1963,1964
エディ・メルクス(ベルギー)1969,1970,1971,1972,1974
ベルナール・イノー(フランス)1978,1979,1981,1982,1985
ミゲール・インデュライン(スペイン)1991,1992,1993,1994,1995
4勝
クリストファー・フルーム(英国)2013,2015,2016,2017
3勝
フィリップ・ティス(ベルギー)1913,1914,1920
ルイゾン・ボベ(フランス)1953,1954,1955
グレッグ・レモン(米国)1986,1989,1990

●マイヨジョーヌ着用日数
エディ・メルクス(ベルギー)111*
ベルナール・イノー(フランス)79*
ミゲール・インデュライン(スペイン)60
クリストファー・フルーム(英国)59
ジャック・アンクティル(フランス)52*
*ドゥミタップ(午前と午後にそれぞれ行われる半ステージ)を含む

●ステージ優勝回数
エディ・メルクス(ベルギー)34
マーク・カベンディッシュ(英国)34
ベルナール・イノー(フランス):28
アンドレ・ルデュック(フランス):25

●1大会のステージ優勝回数
シャルル・ペリシエ(フランス、1930)8
エディ・メルクス(ベルギー、1970・1974)8
フレディ・マルテンス(ベルギー、1976)8

●ポディウム(総合1位から3位までの表彰台)
レイモン・プリドール(フランス)8

●参加回数
シルバン・シャバネル(フランス)18
ジョージ・ヒンカピー(米国)17
イェンス・フォイクト(ドイツ)17

●ポイント賞
ペテル・サガン(スロバキア)7

●山岳賞
リシャール・ビランク(フランス)7

●新人賞
タデイ・ポガチャル(スロベニア)4
ヤン・ウルリッヒ(ドイツ)3
アンディ・シュレック(ルクセンブルク)3

●国籍別の総合優勝回数
フランス:36勝
ベルギー:18勝
スペイン:12勝
イタリア:10勝
英国:6勝
ルクセンブルク:5勝
米国:3勝
デンマーク:3勝
オランダ:2勝
スイス:2勝
スロベニア:2勝
ドイツ:1勝
オーストラリア:1勝
コロンビア:1勝
アイルランド:1勝

●優勝者と2位の最小タイム差
8秒:1989年(優勝グレッグ・レモン、2位ローラン・フィニョン)

●優勝者と2位の最大タイム差
2時間49分21秒:1903年(優勝モーリス・ガラン、2位ルシアン・ポチエ)

●最年長優勝
フィルマン・ランボー(ベルギー、1922):36歳

●最年少優勝
アンリ・コルネ(フランス、1904):20歳
第二次世界大戦後の最年少優勝はタデイ・ポガチャル(スロベニア、2020):21歳

●メディア
取材メディア数:500
記者・カメラマン:45カ国・1800人
テレビ放送:190カ国、100系列局、うち生中継60局
総放送時間:7000時間
公式サイト:1700万ユニークユーザー、2億2200万ページビュー
SNS(Facebook・ツイッター・インスタグラム・YouTube):7500万フォロワー
モバイルアプリ230万ダウンロード
映像視聴者7340万人


ツール・ド・フランスの5勝クラブ

ツール・ド・フランス総合優勝の歴代最多記録は5勝。ジャック・アンクティル(フランス)。エディ・メルクス(ベルギー)。ベルナール・イノー(フランス)。そしてミゲール・インデュライン(スペイン)。「クラブサンク」と呼ばれる「5勝クラブ」への会員登録が許されたのは100年以上の歴史の中でこの4人しかいない。もちろんそんなクラブは実在せず、紙面上で担当記者が好んで使う表現。

ジャック・アンクティル

山岳ステージでヒルクライムのスペシャリストと渡り合い、タイムトライアルでライバルをねじ伏せる。勝利の方程式を確立させたのがフランスのジャック・アンクティルだった。タイムトライアルの伝統レース、グランプリ・デ・ナシオンで9連覇するなど、あらゆるタイムトライアルでトップレコードを記録した。アンクティルのツール5勝はまさにタイムトライアルの勝利によるものだった。深いクラウチングスタイル、華麗なペダリング。近代レースの幕開けを率先したレーサーで、史上初の5勝を記録した。変速機にこだわり、フランスメーカーのサンプレックスから晩年はカンパニョーロに乗り換えた。変速メカの重要性がクローズアップし、機材としての進化が推進されたのもアンクティルがいたからである。


エディ・メルクス

2019年、ブリュッセルの表彰式で大観衆に手を振るメルクス ©ASO Olivier CHABE

ベルギーのエディ・メルクスは自転車競技の歴史の中でも伝説的な選手で、20世紀を代表するスポーツ選手として、自転車選手でただ一人選出された。生涯勝利記録は437勝。ジロ・デ・イタリアとツール・ド・フランスの両方で大会最多記録となる5勝をマーク。ツール・ド・フランスでは、1970年と1974年にステージ8勝を挙げている。
その勝ち方は圧倒的だった。ワンデーレースのクラシックもステージレースも根こそぎ勝ちまくり、その戦いぶりから「カンニバル=人食い鬼」とも呼ばれた。ツール・ド・フランスでも総合1位のマイヨジョーヌを着ながら、パリのゴールスプリントを制したこともある。平たんステージで逃げを決め、山岳でも独走する。マイヨジョーヌを着用した日数はなんと96日(午前と午後に開催されたドゥミエタップを考慮せず)。決して破られることのない不滅の記録の持ち主だ
現在は自らの名前を冠したフレーム製作会社を経営し、ロット・ドモチームが使用している。息子のアクセル・メルクスは現役選手として活躍中。


ベルナール・イノー

パリ〜ルーベを走るベルナール・イノー

ツール・ド・フランスで5勝をあげた選手の中でも最も荒々しく、好戦的なレーサーがイノーだ。1954年11月14日生まれ、フランスのブルターニュ出身ジタンチームに所属していた1978年にツール初優勝。以来ツールは通算5勝、ジロ・デ・イタリア3勝、ヴェルタ・エスパーニャ2勝、世界選手権ロード優勝など、あらゆるメジャーレースを総なめにした実力者。
ニックネームは「ブルターニュの穴グマ」。ツールでは、このイノーの1985年優勝を最後に地元フランス勢は総合優勝から遠ざかっている。現役引退後はツール主催者の専門委員に就任。今でもレース会場には欠かせぬ存在となっている。
イノーと言えばジャージの胸元を引き裂いて走るほど荒々しい性格だったが、それと同時に最新鋭機材を次々と導入し、自転車界に革命をもたらせたことでも知られた。1980年代に入ってすぐに、涙滴断面のエアロチューブを駆使し、その後のエアロブームを巻き起こしたのもイノーだった。このフレームに装備されているルックのビンディングペダルだってその代表だ。100年の歴史があったトウクリップをわずか数年で引退に追い込んでしまった功罪の首謀者だ。
絶対的な自負心を発散し、エースとアシストという徒弟制度を確立させたイノー。最後の総合優勝の時、落車で鼻骨骨折するアクシデントもあって、チーム内の若きグレッグ・レモンに優勝を譲られた形で終幕した。そのときに「来年はおまえに譲るから」という話があったはずである。


ミゲール・インデュライン

スペインの無敵艦隊ミゲール・インデュライン

スペインの太陽王と呼ばれたミゲール・インデュラインは、スペイン北部のバスク地方の出身。1984年にイバネストチームの前身である、レイノルズでプロデビュー。先輩格のペドロ・デルガドのアシスト生活が長く、頭角を現したのは20代の最後の方だ。身長188cmと大柄だが、山岳ステージに強く、ヒルクライマーと互角に渡り合い、得意のタイムトライアルで圧勝する。まさにアームストロングと同じ勝ちパターンで勝利を重ねていった。
性格は温厚で、誰からも愛され、頭脳的な走りもできる。アームストロングさえも、「ミゲールのような、あんな偉大な選手になりたい」と言わしめたほどの完全無欠なレーサーだった。ツール・ド・フランスでは鉄壁の走りで5連覇を達成したが、1996年にアルプスで脱落し、デンマークのビャルネ・リースに連覇を阻止された。引退も早く、そのシーズンを最後に現役生活に終止符を打った。

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【ツール・ド・フランスリバイバル】2011年、マイヨジョーヌ南半球へ

第98回ツール・ド・フランスはオーストラリアのカデル・エバンス(BMC)が南半球にある国の出身選手として初となる総合優勝を達成した。34歳だった。1分34秒遅れの総合2位はルクセンブルクのアンディ・シュレック(レパード・トレック)。2分30秒遅れの同3位は兄フランクで、兄弟がパリの表彰台に一緒に立つのは史上初。

第4ステージで勝利を確信したコンタドールがガッツポーズするが、写真判定でエバンス(右)が先着していた

エバンスは第4ステージで区間優勝すると、合計6区間ある山岳コースでも有力選手から致命的な遅れを取ることなく、最終日前日の個人タイムトライアルへ。得意とするこの種目で57秒遅れの総合3位から一気に首位に立った。

「自転車をやり始めてからここまで20年間。ツラいことも多かったが、たくさんの苦労が今日の栄冠をもたらしてくれた」とエバンス。

もともとはMTB選手でW杯シリーズ年間王者に2年連続で輝いた実績がある。自国開催のシドニー五輪後、欧州を活動拠点にしてロードレースに本格転向。2009年には世界チャンピオンになったが、アシストを含めた総合力が問われるツール・ド・フランスではチーム力に恵まれず何度も優勝を逃してきた。

開幕地バンデ県に本拠地を置くヨーロッパカーチームは、地元出身選手を多用したフランス純血チームに。新城幸也はそれに押し出される形でメンバー落ちしたが、「ユキヤが選ばれないのは理解できない」という地元ファンの声が聞かれた。

干潮時にしか海面上に姿を現さないパサージュ・デュ・ゴワが開幕日のスタート地となった

ジロ・デ・イタリア制覇のコンタドールが読み違えたこと

この2011年大会の開幕では、スペインのアルベルト・コンタドール(サクソバンク)は3年連続4回目の総合優勝を目指す大本命だった。後日前年の総合優勝が薬物使用によって取り消されるが、コンタドールの実力はだれもが認めていた。ただしコンタドールにとっては、じつのところ番狂わせなツール・ド・フランス出場だった。

コンタドールは5月に開催されたジロ・デ・イタリアで圧勝していた。周囲はマルコ・パンターニ以来となる12年ぶりの二大大会制覇を期待した。しかし開幕地に登場したコンタドールの調整不足は明らかだった。科学的コンディショニングが導入される近年においては、その間隔が1カ月しかない23日間の過酷なレース2つをベストで臨むことは非常に難しいことなのだ。

コンタドール(3人目)は第1ステージの終盤に落車に巻き込まれ、いきなり1分20秒遅れた

コンタドールも当然、世界最高峰の自転車レースであるツール・ド・フランスを最重要視していた。それでもなぜジロ・デ・イタリアに出場したのか。それは前年のツール・ド・フランスで誤差の範囲ほどの微量ながら禁止薬物が検出されたことで、それを理由に主催者からシャットアウトされる可能性があったからだ。

ツール・ド・フランスの欠場を想定してジロ・デ・イタリアに参戦。その大会で地元イタリア勢を寄せ付けることなく圧勝。皮肉なことにその後、ツール・ド・フランスに参加ができることになるのだが、ジロ・デ・イタリアの疲労をコンタドールは取り切れていなかった。案の定、第1ステージの終盤に発生した落車で立ち往生し、初日で1分20秒もロス。失ったこのタイムは終盤になって大きく影響してくる。

絶好のスタートを切ったのはエバンスだ。2007、2008年と僅差で総合2位になっていたが、ここ2年は若手期待のアンディ・シュレックが台頭し、この34歳の選手は優勝候補の大本命とは見なされていなかった。しかし初日に3秒遅れの総合2位につけると、序盤戦にマイヨジョーヌを独占したトール・ヒュースホウトをわずか1秒差で追走。絶好の位置で勝負どころとなる山岳ステージを迎えた。

コンタドールの不調で優勝の最有力となったアンディは、兄のフランクとともに前半戦になりを潜めた。まるで調子が悪いのかとも思えるような、動きの見られない走りだった。それでもライバルとなるコンタドールがタイムを失い、うるさい存在であるアレクサンドル・ビノクロフが落車によってレースを去っていく。

中央山塊の第9ステージでトマ・ボクレールがマイヨジョーヌを獲得しても、シュレック兄弟が山岳ステージで勝負に転じる計画は変わらなかった。

2011ツール・ド・フランスでマーク・カベンディッシュは区間5勝、マイヨベールも獲得した

フランスのボクレールが意地を見せた

ところがここで頑張ったのがボクレールだ。1985年のベルナール・イノー以来、最終的なマイヨジョーヌから遠ざかっているフランス勢にあって、ボクレールは見事なまでの執着心を見せつけた。

「山岳でマイヨジョーヌを手放すことになるよ」とは言い逃れ。あるいはチームメートのプレッシャーを減じるためのハッタリだった。

ピレネーの3日間をボクレールはマイヨジョーヌを守り抜いた。さらにアルプスでも2日間崩れなかった。ファンは「パリまでマイヨジョーヌを守るのでは」という期待もわずかにふくらんだ。しかしそこはボクレール。

最後の山岳となるラルプデュエズ。一発逆転をねらったコンタドールに対して、アンディが反撃を許さずにゴール。さすがにボクレールも脱落して、ようやくここでアンディがマイヨジョーヌを獲得する。

広告キャラバン隊は夜遅くまで騒いでいるが、朝早くから販促物の封入作業も

しかし2011年の大会は、それでドラマがフィナーレを迎えるという筋書きではなかったようだ。

最終日前日の個人タイムトライアルへ。合計6区間ある山岳コースで有力選手から致命的な遅れを取ることがなかったエバンスが、得意とするこの種目で57秒遅れの総合3位から一気に首位に立った。およそ10年間、ツール・ド・フランスでは苦悩の日々を費やしてばかりだったが、まさにマイヨジョーヌへの執着心が爆発した。

2011年の大会はたった1枚しかない黄色いジャージへのこだわりが強かった選手に最終的に落ち着いたという感がしてならない。


ツール・ド・フランスの歴史は講談社現代新書のKindle版にしっかりと書いてあります。

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【ツール・ド・フランスリバイバル】2010年、コンタドールの栄冠はく奪

前年に2度目の優勝を果たしたアスタナのアルベルト・コンタドール(スペイン)がサクソバンクのアンディ・シュレック(ルクセンブルク)をわずかに制してパリでマイヨジョーヌを着用した。ところが後日、微量の禁止薬物がコンタドールが受けたドーピング検査で検出され、2011年になってタイトルはく奪。総合2位シュレックが繰り上がり優勝者となった。

アンディ・シュレック。マイヨジョーヌとマイヨブランの統合ジャージは実際にあるわけではなく、撮影のために用意されたもの
頼もしいアシスト役として存在感あふれる走りを見せた新城幸也

前年に初出場にして日本選手初の完走を果たした新城幸也(ブイグテレコム)はこの年も連続出場。23日間を戦い抜き、2年連続となる完走を果たした。

呼吸器疾患と精神状態に苦しんでいたコンタドール

前年はチーム内に難敵ランス・アームストロングを抱えながら、チームぐるみの妨害に耐えて総合優勝したコンタドール。2010年は2年連続3度目の優勝に挑むために、オランダのロッテルダムで開幕した大会に乗り込んできた。

この年の7月はウィンブルドンでナダルが優勝し、サッカーW杯でスペインが快進撃していた。4年に一度の遭遇としてサッカー大会と日程が重なった第97回ツール・ド・フランス。9日目にコンタドールは自国スペインの優勝を喜ぶことになり、「7月はスペインスポーツの強さを見せつけたい」と総合優勝への意欲を見せた。そして幸先のいいスタートを切る。序盤のアルプスを終えて首位アンディ・シュレックを41秒差でピッタリとマークした。

ところがコンタドールは、ことあるごとにサッカーなど別の話題を持ち出してみて、自らの調子に関する質問をはぐらかした。じつはコンタドールは、2010年大会にこれまでのようなベストコンディションで臨んでいなかった。欧州の異常気象によって呼吸器系の持病に苦しんでいたとも伝えられる。

アスタナとサクソバンクのつばぜり合いは最後まで続いた

精神面でも追い込まれていたとして当然だ。2009年、アスタナチームはランス・アームストロング派に傾倒し、コンタドールへの忠誠を拒否した。チーム内にいたこの最大のライバルが、幸いなことに2010シーズンはアームストロングと結託していたブリュイネール監督とともに立ち去るのだが、それと入れ替わってカザフスタンの英雄的存在アレクサンドル・ビノクロフが復帰してきた。

大会側も2006年から4連覇を続けるスペイン勢にハンデを押しつけてきた。スペイン勢が活躍の場としない北フランスの石畳みをコースに組み込んだのだ。もちろんコンタドールも「北の地獄」と呼ばれる石畳の悪路は未体験。案の定、コンタドールはここでアンディ・シュレックから1分13秒というタイムを失った。この第2ステージが終わってコンタドールはシュレックに対して31秒遅れだった。

マイヨジョーヌのアルベルト・コンタドールが山岳で揺るぎない走りを見せた

ライバルはシュレック。親しい仲もついに決裂?

アルプス初日の第8ステージでも、コンタドールは区間優勝のシュレックから10秒遅れでゴール。翌ステージでマイヨジョーヌはシュレックのものになった。この時点で総合優勝争いはシュレックと、それを41秒差で追うコンタドールの2人に絞り込まれた。

中央山塊のマンドにゴールする第12ステージで、コンタドールはシュレックを引き離すことに成功したが、区間勝利に固執したばかりにゴール時点ではわずか10秒しか稼ぎ出すことができず。タイム差は再び31秒になった。

そして運命の第15ステージ。ピレネーのポルトデバレスを上る山岳区間がキーポイントとなった。残り21.5km地点を頂上とするカテゴリー超級の峠で、コンタドールはアシスト役のビノクロフとともにシュレックの様子をうかがった。長い峠道で山岳スペシャリストのシュレックに差をつけることは容易ではなかった。

ツールマレー峠

頂上まであと3kmという地点でマイヨジョーヌを着るシュレックのほうが先手を打った。急加速によって一気に差を開く。あわててビノクロフがこれを追う。コンタドールは反応がわずかに遅れた。ところが次の瞬間、シュレックのペースが明らかにダウンした。

「ここだ」とばかりにコンタドールがカウンターを仕掛けた。この時点で総合3位のサムエル・サンチェス、同4位のデニス・メンショフも追従。

シュレックはフロントチェーンリングのチェーンを脱落させていた。あわててしまったのはシュレックだ。一度自分でかけ直すが失敗。再び地面に足をつけて震える手でチェーンをかけ直した。わずか十数秒のことだったが、上りでコンタドールらに追いつくことができず、ゴールまでの下りでも追いつけなかった。シュレックはこの日39秒失った。総合成績は8秒差で2位になっていた。

ゴール後の記者会見に出席したコンタドールは「ここでタイムを稼げたのはうれしい限りだ」と語り始めたが、記者団が「シュレックのメカトラブルは見ていたのか」という質問に、笑顔が消えた。

「見ていない。シュレックがペースダウンしたのは知っているが…」

ホテルに到着して国際映像で流されたそのシーンを見て、コンタドールはさらに青ざめたはずだ。すぐに緊急のビデオ出演。「シュレックのトラブルに乗じるつもりはなかった」と謝罪した。

2010ツール・ド・フランス

マイヨジョーヌが不運で遅れたときは待たないといけないのか?

マイヨジョーヌがトラブルに見舞われ、それで総合優勝の行方が大きく変わっていくという例は過去にもある。今回はまさに大詰めの、それも最大の勝負どころでトラブルが起きた。それはシュレックにとって不運なことだったが、コンタドールのアタックまで否定するものではないというのが、プレスセンターの雰囲気だった。

じつは第2ステージでシュレック兄弟が落車で遅れたとき、メイン集団が彼らの復帰を待ったというのも異例だった。もしこのとき、コンタドールを含めた有力選手がペースダウンに同意しなければ、アンディ・シュレックは大会3日目にして総合優勝争いから脱落していたとしても不思議ではない。

ゴール後は悪態をついたシュレックだったが、コンタドールの対応に翌日には冷静さを取り戻したのはさすがだった。

2010ツール・ド・フランス

コンタドールはこれまで、アームストロングの急先鋒として期待され、人気が高かった。そのアームストロングが失速したことで手のひらを返すかのようにアンチコンタドール化したファンは無情だ。

「精神的には昨年よりもツラい大会だった」とコンタドールが語った理由は、表彰式で耳に入ったブーイングだろう。

ランス・アームストロングが最後のツールマレー峠でアタックし、意地を見せた

第97回ツール・ド・フランス。新城に幸運の女神はほほえんだか?

「逃げます!」と宣言するのは簡単です。でも実際にはとんでもなく難しいことなんです。簡単にできることだったら、さっさとやっています。

国際映像に向かって手を振ったり、沿道の日の丸にこやかにほほえんだりしながらも、新城幸也は苦悩していた。だってツール・ド・フランスには21の白星しかないからだ。そのなかには個人タイムトライアルがあり、さらに急峻な山岳ステージを差し引くと、新城のようなアタッカーが勝負できるステージは片手の指の数ほどしかない。

数少ないチャンスをいかにものにするか。ずば抜けた実力とともに、そのときの運も味方につけなければならない。

2009年のツール・ド・フランスに初出場した鉄馬(カミンマ)こと新城は、マスドスタートの最初のレース、つまり大会2日目の第2ステージでいきなり区間5位に食い込んだ。世界中が驚いただろうが、取材歴が20年以上になるボク自身もビックリした。

当然のように日本のファンの期待は一気にふくらんだ。「出場するからには勝ちにいかなきゃ意味がない」と意欲を語る新城の表情に、心の中ではプレッシャーにもなったはずだ。

新城幸也のチームジャージにはエリとソデに元日本チャンピオンの誇りを配置

昨年の経験があるので、23日間のペース配分がわかっているのが強み。

複線は5月のジロ・デ・イタリア。距離162kmで行われた第5ステージで新城は15km地点で単独アタック。これに他の3選手が追従してゴールまで逃げまくった。途中で1選手が脱落すると、数にものを言わせた後続の大集団が残り1kmで3人を飲み込もうとしたが、ここから新城が起死回生のスパート。大集団からまんまと逃げ切った。

空気抵抗の大きい先頭を突っ走ってゴールを目指した新城は、最後にパワーを集中させることができずにクイックステップのジェローム・ピノーに優勝をさらわれ、3位となる。

「悔しい。こんなチャンスは二度とないかも知れないのに。日本のみなさん、ごめんなさい!」

この年のツール・ド・フランス開幕時、「ピノーに会ったら両手を差し出して、なんかプレゼントはないの?って言うんだ」と新城は冗談っぽく語っていたが、そのピノーには貴重なアドバイスをもらった。

「ああいう無謀なアタックを20回やって、1回勝てたらもうけもの。ツール・ド・フランスとはそういうものさ」

新城幸也が2年連続でシャンゼリゼに帰ってきた

目立つことだけでなく、キッチリと仕事をこなす

チームはスプリンターとしての新城の実力を高く評価している。それでも本人は全面的にスプリンターであることを否定する。「スプリンターは最後の勝負まで静かにしていなければいけない。おとなしくしているのは退屈で好きじゃない。アタックしたほうが楽しいじゃないですか」

ツール・ド・フランス2回目の休息日にて。日本人記者が集まった記者会見もリラックスして臨めるようになった。これも2年目の実績である。

2年連続出場を決めた新城は、2009年以上に総合力を高めていた。第11ステージでは区間6位。それ以外の平たんステージでもトップが見えるところで勝負に加わった。すべてスプリンターとしての実績だ。

しかしアタッカーとしての新城はヨーロッパの列強に封じ込められたと言っていい。

「ツール・ド・フランスのようなメジャーレースが、スタート直後の1回のアタックで決まってしまうのは絶対におかしい!」

新城がいつもとは違う口調で吐き捨てたことがあった。

つまり自転車レースというのは駆け引きや心理作戦があり、総合成績と区間勝利が同時進行で展開していく複雑さがあって興味深いのだと。それが序盤の単調なアタックで決まってしまうのは我慢ならないということだ。

その一方で新城が前に出ようとしたときには封じ込められる。「日本人に勝手なことをされては困る」という意志があるかのようだ。

それを打ち破るのは容易ではない。次は果たせなかった一発勝負を。そして5年後には総合優勝を争うオールラウンダーに。夢が夢でなくなる時代は確実に近づいている。


ツール・ド・フランスの歴史は講談社現代新書のKindle版にしっかりと書いてあります。

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