【ツール・ド・フランスリバイバル】2016…フルーム傷だらけの勝利

世界遺産モンサンミッシェルで開幕した第103回ツール・ド・フランスは、英国のクリストファー・フルーム(スカイ)が2年連続3度目の優勝を果たした。2年ぶり6度目の参戦を果たした新城幸也(ランプレ・メリダ)は悲願の区間勝利こそつかめなかったが、第6ステージで敢闘賞を獲得した。2012年の第4ステージに続いて2度目の受賞。

第19 ステージでフルームは苦戦。マイヨジョーヌは落車で破け、手足から出血も
2016ツール・ド・フランス
新城幸也にとって2度目の敢闘賞

初日に区間勝利とボーナスタイム10秒を獲得して首位に立ったディメンションデータのマーク・カベンディッシュ(英国)は、翌日の第2ステージ終盤の上り坂で脱落。このゴールまでの上り坂で少人数の力勝負となり、ティンコフのぺテル・サガン(スロバキア)がわずかに先着。3年ぶり5回目の区間勝利を果たした。

第1次大戦の激戦地でチームプレゼンテーションに登場した世界チャンピオンのサガンとコンタドール

総合成績では前日までの成績で6秒遅れの総合3位につけていたサガンが首位に立ち、マイヨジョーヌを獲得した。同選手はポイント賞争いでも1位になり、5年連続の同賞獲得にも手応えをつかんだ。

第5ステージは中央フランスに舞台を移し、BMCのグレッグ・バンアーベルマート(ベルギー)が終盤に独走して優勝。前日までの総合成績で18秒遅れの20位につけていた同選手が、2位以下に2分以上の大差をつけたことで一気に首位に立った。

この日は起伏の激しい中央山塊に突入したことで有力チームの走りが本格化。首位のマイヨジョーヌを着るサガンは長い上りを得意としていないため、23分45秒遅れの区間110位でゴール。総合1位から76位に陥落した。

第1ステージは世界遺産モンサンミッシェルをスタートした

そして戦いは第8ステージで前半の勝負どころ、ピレネーへ

ピレネーの本格的山岳ステージでティンコフのラファウ・マイカ(ポーランド)ら3人の伏兵が逃げを打った。3選手とも区間勝利の実績があり、総合成績の逆転をねらった走りというよりはこの日の勝利を目指したものだ。さらにこの3選手の中からマイカが抜け出すのだが、後続集団は総合成績で大きく遅れているマイカを無理には追わなかった。とりわけフルームを擁するスカイチームは翌日も重要な山岳区間が控えていることからアシスト陣の消耗を考え、ある程度は逃げを容認する方針をとった。

マイカが先行した意図は自らの区間勝利とともにチームエースであるアルベルト・コンタドール(スペイン)を後続集団内で体力温存させるためだからだ。マイカはゴールまで残り2つの峠を残して吸収され、区間勝利はならなかったが、この日から本格化した山岳賞のトップに立った。

第6ステージで新城幸也はヤン・バルタとアタックし、後続に5分10秒差をつけた
第6ステージで新城幸也が敢闘賞

有力選手の戦いは最後の山岳でも膠着状態だった。ところが残り15.5km地点の峠の頂上を通過するとフルームが一気に加速して高速ダウンヒルを開始。これにはライバルも意表を突かれ、一気に差が開いてしまう。調子が上がらないコンタドールが脱落し、ゴールまでに大差をつけられる。母国スペインでの区間を目前にして総合優勝争いからの脱落である。

「下りでアタックすることはまったく計画にはなかった」

フルームは下り坂でその差を広げてゴールまで逃げ切った。フルームの区間勝利は2015年の第10ステージ以来で、大会通算6勝目。

「上りで何回かアタックしたが、他の選手が着いてきた。だったら下りで突き放してやろうと考えた。ちょっと体力を使ってしまい、翌日の過酷なレースが気になるが、ステージ勝利は気分がいいし、貴重なタイムをかせぐことができた」

ピレネーの第8ステージで、戦闘から2分遅れのメイン集団をスカイとモビスターが引っ張る
ピレネーの第8ステージでフルームが優勝。首位に躍り出た

総合優勝を争うモビスターのナイロ・キンタナ(コロンビア)とアスタナのファビオ・アルー(イタリア)らは13秒遅れ。フルームは区間1位のボーナスタイム10秒も獲得していて、総合成績で一気に首位に立った。前日までの首位バンアーベルマートは山岳を得意としていないため、25分54秒遅れで、その座を手放した。

しかしキンタナとアルーはわずか23秒差でフルームを追う位置にいる。フルームとしては上りでこの2選手の走りを警戒しているだけに、この日の下りを使った奇襲作戦に出たとも考えられる。マイヨジョーヌをめぐる戦いは始まったばかりだ。

第9ステージのアンドラ・アルカリスは雹混じりの豪雨だが、パンタノはファンから傘を借りたらしい

アルプスの個人タイムトライアルで突き放す

第18ステージは距離17kmの個人タイムトライアルが行われ、総合成績で首位のフルームが30分43秒のトップタイムで優勝。ピレネー山脈で行われた第8ステージに続く今大会2勝目で、大会通算7勝目。個人タイムトライアルで勝ったのは2013年以来2度目。総合成績では2位バウケ・モレマ(オランダ、トレック・セガフレード)との差を2分27秒から3分52秒に広げた。

距離は短いものの上り坂を駆け上がる個人タイムトライアル。チームメートに助けてもらうことができない種目なので、個人の実力差が量られる。そんな重要なステージでフルームが1位になり、だれが一番強いのかがはっきりとした。2年連続3度目の総合優勝に大きく前進したのである。

ニースで起きたテロ事件の犠牲者に黙とうを捧げる

フルームはスタートしてしばらくは慎重に走った。すでに総合2位以下とのタイム差は十分にあり、落車や観客との接触のみを注意して走ればよかった。しかし中間地点で暫定トップだったトム・デュムランのタイムに並ぶと後半は余裕ができて全力で走った。

「すべてのトラブルを回避するような走りをしたかった。午前中にコースをチェックしたときはいつも使っているロードバイクで走ろうと考えた。でもチームスタッフはタイムトライアルバイクを使うことをすすめてくれた。軽量なので上りでもロスはないという理由だったが、その選択が今日の結果につながったね」とフルーム。

第20ステージは最後の山岳区間だった。雨中戦となりアクシデントも想定されたが、強力なアシスト陣に援護されたフルームはライバルの反撃をまったく許すことなくゴールした。

第18ステージは距離17kmの個人タイムトライアル

最後の山岳ステージの最後の1kmまで慎重に走った

フルームが4人のチームメートとともにモルジンヌのフィニッシュラインを通過したとき、全身はずぶ濡れだったがようやく安堵の笑顔を浮かべた。2位に4分以上の大差をつけながら最後まで油断せず、ゴールまでの下り坂も細心の注意を払って走った。ずっと後ろを走っていたライバルたちが最後はスパートして追い抜いていったが、そんな数秒のタイムロスはもうどうでもよかった。

「この24時間、ボクはとてもナーバスになってしまった。そんなときにチームメートが声をかけてくれたり、レースで力を貸してくれた。マイヨジョーヌを守れたのはそのおかげだ。圧勝のように見えるけれど、ボクはギリギリの状態だった」

この大会のフルームの勝因は、上り坂に強いライバル選手にそこで勝負をさせなかったことだ。ピレネー山脈の第8ステージでフルームはまさかの下り坂で単独アタック。僅差ながらライバルに差をつけてここで総合1位に立った。そのあとも平たん区間で積極的に動いて毎日のようにわずかなタイム差を稼いでいく。2つの個人タイムトライアルを巧みに使い、十分なタイム差を稼ぎ出すと、圧倒的なチーム力で最後のアルプスをしのぎ、逃げ切った。

この日は前日の落車で体中が痛かったという。脚の疲労も感じていたが、この日は幸いなことに脚力が回復した。しかし冷たい雨にたたられて、苦い経験がよみがえったという。2年前、雨の第5ステージで二度にわたって落車し、手首を骨折して連覇を断たれたことである。

「危険を回避するために常に先頭にいた。最後の1kmになってようやく栄冠をつかめたという感慨と、これまでのさまざまな記憶がよみがえってきた。いまはマイヨジョーヌとともに生きている幸せを感じている」

「凱旋門をバックにピースサイン撮れました?」とフィニッシュ後に新城幸也が声をかけてくれた

ツール・ド・フランスの歴史を知りたい人は講談社現代新書からKindle版の電書が出ていますので、お手にとってお確かめください。

【ツール・ド・フランスリバイバル】
2015年に戻る≪≪≪  ≫≫≫2017年に進む

🇫🇷ツール・ド・フランス2020特集サイト
🇫🇷ツール・ド・フランス公式サイト

【ツール・ド・フランスリバイバル】2014年はニーバリ初優勝

全体的に天候が荒れ気味の2014年ツール・ド・フランスは、アクシデントに巻き込まれた選手が相次いでレースを去っていった。同じ条件でありながらも、堅実に走り続けた実力者が栄冠のゴールにたどり着いた。総合優勝のビンチェンツォ・ニーバリ(イタリア、アスタナ)もヨーロッパカーの新城幸也も、まさに地に足をつけた自然体のスタイルだった。

第14ステージ、イゾアール峠を下るマイヨジョーヌのニーバリ

第5ステージの石畳区間でニーバリは早くも勝負に出た

ビンチェンツォ・ニーバリ。全21区間のうちマイヨジョーヌを着用したのはなんと19日だ。勝負どころの山岳では1日だけティンコフ・サクソのアルベルト・コンタドール(スペイン)に3秒負けたが、あとはライバルとのタイム差を広げるばかり。気がつけば前年の覇者クリストファー・フルーム(英国、スカイ)、3度目の優勝をねらったコンタドールらのライバルが不意の落車で大きく傷つき、レースを断念してチームカーに乗り込んでしまった。

2014ツール・ド・フランス

地元イタリアのリクイガス・キャノンデールに所属していた2年前、ニーバリはジロ・デ・イタリアをパスしてツール・ド・フランスに乗り込んだ。しかしブラッドリー・ウィギンスとそのアシスト役だったフルームに山岳ステージで封じ込まれた。イタリア自転車界の育成システムに乗り頭角を現したニーバリにとっても、かなわぬ敵が君臨することを初めて知る。

その翌年に心機一転。カザフスタンのアスタナに電撃移籍した。現役選手を引退して同チームの監督に就任することになったアレクサンドル・ヴィノクロフが次期エースとしてニーバリ獲得に動いたのだ。カザフスタン選手だけではツール・ド・フランスに勝てないと考えたからだ。

英国開幕のこの年、第1ステージのゴールスプリントで地元マーク・カベンディッシュがまさかの鎖骨骨折
第1ステージで優勝してマイヨジョーヌを獲得したマルセル・キッテル。第2ステージで脱落しても笑顔で声援に応える

ニーバリの天性に、怨念も含むヴィノクロフの冷静な判断力が加わって飛躍的にレベルアップを遂げたのは周知の事実だ。2013年にジロ・デ・イタリア総合優勝。そしてこのシーズンは連覇のかかるジロ・デ・イタリアをパスしていよいよツール・ド・フランスに照準を合わせて乗り込んできた。

優勝争いのキーとなったのは「北の地獄」と呼ばれる石畳区間を走った第5ステージだった。石畳はレース後半に設定されていたが、前日に右手首を痛めていたフルームが前半の舗装路で2度も落車。手首を骨折してリタイアした。そして石畳区間に入るとニーバリがアシストとともにアタックし、コンタドールに大差をつけた。結果的にはこれがコンタドールにプレッシャーを与えることになり、第10ステージの右足骨折でコンタドールも消えていった。

第9ステージでトニー・ガロパンがマイヨジョーヌ。敢闘賞のアテンドガール、恋人のマリオン・ルスと

結果的に総合2位とは7分以上の大差。これは1987年にヤン・ウルリッヒが初優勝したときのタイム差を超える圧勝だったが、全区間でニーバリにブレーキがなかったこと、そしてアスタナチームの総合力が抜群に高かったことが要因だ。

第14ステージでラファウ・マイカが優勝。さらに第17ステージでも優勝し、山岳王に

アスタナはすべてのアタックに対して大逃げを容認することがなく、メイン集団の先頭に立ってコントロールした。山岳の上りでもジロ・デ・イタリア優勝経験のあるスカルポーニらがけん引役を務めた。ニーバリは最後の山岳で温存したパワーを発揮するだけでよかった。ニーバリがアタックしても、総合2位ねらいのティボー・ピノ(エフデジュポワンエフエル)やジャンクリストフ・ペロー(AG2Rラモンディアール)のフランス勢は追走しなかった。

29歳にしてグランツールを全制覇したニーバリ。次なる目標は世界選手権。イタリアチームのエースとして6年ぶりのアルカンシエル獲得に挑むという。

左から新人賞のティボー・ピノ、総合優勝のニーバリ、ポイント賞のペテル・サガン、山岳賞のマイカ

世界最高峰のこのレースを代表する選手になった新城

新城幸也は総合65位で、自身が2012年に記録した84位を上回る日本選手の最上位記録を更新。5度の出場ですべて完走。ジロ・デ・イタリアの2回を加えるとグランツール7回出場で全完走という安定感を見せた。

第5ステージ、雨の石畳を走るトマ・ボクレールと新城幸也

2014年の新城は安心感があったし、実際に休息日に訪ねてみてもこれまで以上にリラックスしていた。初出場となる2009年は集団スタートの初日に区間5位になったことが結果的に重圧となり、精神的に追い詰められた状態での戦いを余儀なくされた。しかし、出場回数を増すごとに新城自身が「一番楽しみにしているレース」というこの大会でどう走ったらいいのかを知ることになる。

この年は、記録の上では派手な数字はないが、23日間を通して存在感を見せつけた。アルプスやピレネーの山岳ステージで一度もグルッペットでゴールしなかったのは、ツール・ド・フランスの走り方を知り尽くしている証拠だ。

ピレネーの第18ステージでも新城幸也はエースのボクレールを援護した

安定感のある走りは視野の広さを提供する。そのステージのどこに知り合いのカメラマンがいたか。日の丸を掲げている人がどこで応援してくれたか。すべてがよく見えている。世界最高峰のレースだからとムキにならず、自然体でなにごともなかったかのようにパリ・シャンゼリゼにゴールする。区間勝利はなかったが、その実力は世界レベルに上り詰めた。

フランス南西部は一面のヒマワリ畑が広がる

ツール・ド・フランスの歴史を知りたい人は講談社現代新書からKindle版の電書が出ていますので、お手にとってお確かめください。

【ツール・ド・フランスリバイバル】
2013年に戻る≪≪≪  ≫≫≫2015年に進む

🇫🇷ツール・ド・フランス2020特集サイト
🇫🇷ツール・ド・フランス公式サイト

【ツール・ド・フランスリバイバル】2013年の100回大会でフルーム初優勝

第100回ツール・ド・フランスはスカイのクリストファー・フルーム(英国)の圧勝だった。窮地があったとすればハンガーノックになったラルプデュエズで、そのゴール後に、「好感度を高めるためにわざと?」という質問さえ飛び出るほどで、フルームはキューピーのような屈託のない笑顔で「そんなことはないよ」と返すのだった。

最後の山岳でも上りのスペシャリストを逃がすことなくフルームがマイヨジョーヌを死守

日本でプロ初勝利を挙げたフルームが記念大会を制覇

ホテルでの立ち話やゴール直後のフランス語によるインタビューを聞く限りは好青年だ。そのフランス語はたどたどしくも一生懸命で、「うん、だからそうなんだよね」と司会者も助け船を出したくなる。

ツール・ド・フランスは100回大会で初めてコルシカ島を走った

日本のファンにしてみれば、プロ初勝利は2007年のツアー・オブ・ジャパン伊豆ステージで、親近感もあるだろう。もっと言及するとそのレースでスタート直後に飛び出したのがNIPPOに所属していた新城幸也。フルームは終盤に新城を逆転し、それでも新城は執拗に追撃をかけるがフルームに逃げ切られているのだ。

コルシカ島に日本チャンピオンジャージで姿を現した新城幸也

2012年の最終日前日、ボクはスカイチームと同宿で、エースのブラッドリー・ウィギンスがマイヨジョーヌを確実にした祝宴の席で、フルームとウィギンスの席がずいぶん離れていることを目撃した。最終日の朝には、ボクの部屋の前でカチューシャの監督がフルームを呼び止めるのだが、「ちょっと話があるので部屋に来ないか」という内緒話がつつ抜けだった。

わずか10分でフルームは部屋から出て行ったので、移籍には至らないなと推測できたが、朝食の会場ではボクの立ち話に付き合ってくれ、「来年もスカイでがんばるよ!」とさわやかな口調で話してくれたのだった。

ラルプデュエズのオランダ人コーナー

そういった人当たりのよさを見せながらも、ロードバイクにまたがると別の側面がかいま見られる。2012年は遅れがちなウィギンスを振り返りながら「ついてこられないの?」とばかりの手振り。2013年も下りコーナーで制御不能に陥ったコンタドールに接触しかかって、「無謀なことはするべきじゃない」と内面をチラリと露呈させた。

勝てるところは全部持っていくという強い執念も感じる。ケニアのナイロビで生まれ、南アフリカで育ったという特異な境遇をもつフルームが、どんな考えを秘めてこのスポーツに没頭しているのか。2連覇がかかる2014年の大会とともに興味深いところなのだ。

最終日前日の最後の山岳でキンタナが区間初勝利
最終日の午前中、パリへのフライトでくつろぐフルームとチームメートのリッチー・ポート

日本チャンピオンの新城幸也が再びアタックを敢行

全日本チャンピオンの新城も存在感を示した。日本で国際映像を見ているとたまにしか登場しない歯がゆさもあっただろうが、現地ではマイヨジョーヌなどの実力者に劣らない人気ぶりだった。純白を基調とした日本のチャンピオンジャージは大集団の中でも際立つもので、沿道の地元ファンから「シャンピオンデュジャポン!」「ユキヤ・アラシロ!」と至るところで歓声がわき起こった。

4賞ジャージ。右からポイント賞のペテル・サガン、総合優勝のフルーム、山岳賞のキンタナ(新人賞も受賞)

目の肥えた欧州ファンは、ひいき選手が勝つところを見に来るわけじゃない。その選手のファイトが目の当たりにしたいんだ。ボクがツール・ド・フランス取材を始めた25年前、まずはこう教えられた。その言葉は今も普遍の真理で、新城がこれほどまでの気概をもって走る雄姿をこれまで以上に頼もしく感じた。

目標としていた優勝ができなかったのは、だれよりも自身が一番悔しいはず。落車によって強打した肋骨2本にヒビが入っていても、笑顔でそれを押し隠してスタートしていく。「シャンゼリゼの石畳は肋骨によくない」と思わずもらすのだが、苦悩や努力を決して人には見せないのが新城なのかも。

ツール・ド・フランスの最終日はパリ!

ボクたちは新城が勝つところが見たいんじゃないんだ(見たいけど)…。そのガッツが見たいんだからこの年も大満足だ。

ボクのツール・ド・フランス取材も25年。劇的に変わったのはインターネットの普及による報道の高速化。科学的トレーニングを導入してコンディショニングして乗り込む選手。チームバスに代表される快適なインフラの整備。カーボンコンポジットはあの時代からあったが、スプロケットは7段から11段へ(当時)。おそらくこういった有形なアイテムは飛躍的に進化した。

第5ステージで新城幸也がアタック。一時はバーチャルマイヨジョーヌとなった

変わっていないこともある。沿道で待ち構える観客の笑顔。ラルプデュエズの坂道のキツさ。パリにたどり着くことなくリタイアしていく選手の無念。そして夏のバカンスというワクワク感とともにやってくる一大スペクタクル。

第100回大会とて、あまり肩肘を張ることなく普通にやってしまうのが伝統の重み。きっと100年後も、機材の進化はあれどみんなのワクワク感は変わらないんじゃないかな。

第5ステージでアタックした新城幸也。ゴール後にて

ツール・ド・フランスの歴史を知りたい人は講談社現代新書からKindle版の電書が出ていますので、お手にとってお確かめください。

【ツール・ド・フランスリバイバル】
2012年に戻る≪≪≪  ≫≫≫2014年に進む

🇫🇷ツール・ド・フランス2020特集サイト
🇫🇷ツール・ド・フランス公式サイト

【ツール・ド・フランスリバイバル】2012年、ウィギンスが英国勢初制覇

2012ツール・ド・フランスはスカイのブラッドリー・ウィギンスが総合優勝し、英国に初めてのマイヨジョーヌをもたらした。2年ぶり3度目の出場を果たした新城幸也は第4ステージで敢闘賞を獲得。3回目の完走を2時間29分13秒遅れの84位という日本人歴代最高位で決めた。

東京中日スポーツの一面に新城幸也の記事が

遅れ気味のウィギンスにいらだちを見せたフルーム

薬物使用によるコンタドールの出場停止、アンディ・シュレックの欠場により、マイヨジョーヌ争いは開幕時点で絞り込まれていた。連覇をねらうオーストラリアのカデル・エバンス、総合力のあるウィギンス、ジロ・デ・イタリアをパスしてこの大会に照準を合わせてきたイタリアのビンチェンツォ・ニーバリだ。

優勝争いが動いたのは本格的な山岳初日となる第7ステージ。この時点で総合2位につけていたウィギンスは、アシスト役のクリストファー・フルームの援護を受けて最後の坂に。しかしライバルであるエバンスとニーバリも離れなかった。ところが献身的なアシストをこなしたフルームがゴール手前300mで抜け出して初優勝。ウィギンスはマイヨジョーヌを獲得するのだが、エバンスとともにそのスパートについていけなかった。

ブラッドリー・ウィギンスが英国勢として初めてマイヨジョーヌを手中にした

ある意味で大会を象徴するようなシーンだった。山岳ではアシスト役のフルームのほうがウィギンスより強かったと言える。フルームは物腰のおだやかな、人のよさそうな普段の性格だが、ロードバイクに乗ると意外と野心的な部分をさらけ出し、その後もウィギンスのアシストをこなしながらも区間勝利へのこだわりをむき出しにした。

マイヨジョーヌ争いはウィギンスが2回のタイムトライアルで圧勝し、エバンスが山岳ステージで陥落。フルームから遅れ気味のウィギンスもニーバリのアタックを封じ込めたかたちで決着を迎える。こうしてウィギンスは第7ステージで手にしたマイヨジョーヌを一度も失うことなく、フルームに手渡すこともなくパリ・シャンゼリゼにゴールした。

連日の果敢な走りで人気者となった新城幸也

第99回大会の話題を2つ挙げるとすれば、英国選手の初制覇と新城の活躍だろう。それは現地プレスセンターや沿道の総意といっても過言ではなく、それだけ英国スカイチームの完勝ぶり、そして新城の連日のアタックは注目された。

プロローグを制したカンチェラーラが大会7日目までマイヨジョーヌを着用した。ウィギンスはずっと7秒差の2位につけていた。優勝争いが動いたのは第7ステージ。最後に激坂が待ち構える本格的な山岳初日だった。

ウィギンスのアシストだったフルームだが、ラプランシュデベルフィーユでツール・ド・フランス初優勝

この日、ウィギンスはアシスト役のフルームの援護を受けて、最後の坂に。ライバルであるエバンスとニーバリも離れない。すでにマイヨジョーヌのカンチェラーラは脱落していて、そのままタイム差なしでゴールすればウィギンスがマイヨジョーヌを獲得する。

フルームがツール・ド・フランスで初めてステージ優勝したのがこの日だった。エバンスとウィギンスはそのスパートについていけず、2秒遅れでゴール。ニーバリは2人からさらに5秒遅れた。

ブラッドリー・ウィギンスは個人タイムトライアルでパワーを見せつけた

「マイヨジョーヌの行方はすでに決しているのだから、そんなに速く走る必要はないんだよ」と、先を急ぐフルームから遅れがちだったことを弁明したウィギンス。

「エースのプレッシャーがないからうまく走れたのだと思う。もっと経験を積んでこのチームで夢をつかみたい」と優等生的なコメントを発するフルーム。両者の心中に秘められた本音を想像するとじつに2012年の大会は興味深い。

ペテル・サガンがツール・ド・フランス初優勝を含む3勝を挙げ、初めてマイヨベールを獲得した
最終日の朝、スカイチームのスタッフがおそろいのTシャツで記念撮影

新城幸也が日本勢として初めて表彰台に登壇

新城の存在感も現地ではウィギンスに負けていなかった。豪州の草分け的元選手、フィル・アンダーソンは「毎日アタックしていた日本選手がいたね。彼は来年期待できるぞ」と語った。フランステレビジョンは「ユキヤ・アラシロは今年、フランス人が一番よく知る日本人になるだろう」とコメントした。

まさに獅子奮迅の大活躍だった。ボクレールのアシスト役として走りながらも第4ステージで敢闘賞。第18ステージでゴール手前までトップ集団で激しく戦った。

3回目の完走を日本人歴代最高位というおまけ付きで決めて、コンコルド広場で日本の取材陣に囲まれて最後のインタビューをしているとき、総監督のジャンルネ・ベルノードーがタイミングを計ってその輪に加わってきた。

第4ステージで新城幸也は敢闘賞を獲得した

「どうだ、見たか。今年の活躍を。来年はうちのチームで初めてツール・ド・フランスで勝つ日本選手になる」

他チームの引き抜きに遭わないように取材陣を意識して語った言葉だ。

英国のベテランカメラマンが「ツール・ド・フランス取材を初めてかれこれ何十年で、ようやく自国選手が総合優勝したのだから感慨深い」とつぶやき、新たな時代の到来を歓迎した。日本自転車界も風が変わろうとしている。日本選手が総合優勝を争うようになるのは果たしていつ?

ヨーロッパカーの新城幸也が2年ぶり3度目の完走を果たした

ツール・ド・フランスの歴史を知りたい人は講談社現代新書からKindle版の電書が出ていますので、お手にとってお確かめください。

【ツール・ド・フランスリバイバル】
2011年に戻る≪≪≪  ≫≫≫2013年に進む

🇫🇷ツール・ド・フランス2020特集サイト
🇫🇷ツール・ド・フランス公式サイト

【ツール・ド・フランスリバイバル】2010年、コンタドールの栄冠はく奪

前年に2度目の優勝を果たしたアスタナのアルベルト・コンタドール(スペイン)がサクソバンクのアンディ・シュレック(ルクセンブルク)をわずかに制してパリでマイヨジョーヌを着用した。ところが後日、微量の禁止薬物がコンタドールが受けたドーピング検査で検出され、2011年になってタイトルはく奪。総合2位シュレックが繰り上がり優勝者となった。

アンディ・シュレック。マイヨジョーヌとマイヨブランの統合ジャージは実際にあるわけではなく、撮影のために用意されたもの
頼もしいアシスト役として存在感あふれる走りを見せた新城幸也

前年に初出場にして日本選手初の完走を果たした新城幸也(ブイグテレコム)はこの年も連続出場。23日間を戦い抜き、2年連続となる完走を果たした。

呼吸器疾患と精神状態に苦しんでいたコンタドール

前年はチーム内に難敵ランス・アームストロングを抱えながら、チームぐるみの妨害に耐えて総合優勝したコンタドール。2010年は2年連続3度目の優勝に挑むために、オランダのロッテルダムで開幕した大会に乗り込んできた。

この年の7月はウィンブルドンでナダルが優勝し、サッカーW杯でスペインが快進撃していた。4年に一度の遭遇としてサッカー大会と日程が重なった第97回ツール・ド・フランス。9日目にコンタドールは自国スペインの優勝を喜ぶことになり、「7月はスペインスポーツの強さを見せつけたい」と総合優勝への意欲を見せた。そして幸先のいいスタートを切る。序盤のアルプスを終えて首位アンディ・シュレックを41秒差でピッタリとマークした。

ところがコンタドールは、ことあるごとにサッカーなど別の話題を持ち出してみて、自らの調子に関する質問をはぐらかした。じつはコンタドールは、2010年大会にこれまでのようなベストコンディションで臨んでいなかった。欧州の異常気象によって呼吸器系の持病に苦しんでいたとも伝えられる。

アスタナとサクソバンクのつばぜり合いは最後まで続いた

精神面でも追い込まれていたとして当然だ。2009年、アスタナチームはランス・アームストロング派に傾倒し、コンタドールへの忠誠を拒否した。チーム内にいたこの最大のライバルが、幸いなことに2010シーズンはアームストロングと結託していたブリュイネール監督とともに立ち去るのだが、それと入れ替わってカザフスタンの英雄的存在アレクサンドル・ビノクロフが復帰してきた。

大会側も2006年から4連覇を続けるスペイン勢にハンデを押しつけてきた。スペイン勢が活躍の場としない北フランスの石畳みをコースに組み込んだのだ。もちろんコンタドールも「北の地獄」と呼ばれる石畳の悪路は未体験。案の定、コンタドールはここでアンディ・シュレックから1分13秒というタイムを失った。この第2ステージが終わってコンタドールはシュレックに対して31秒遅れだった。

マイヨジョーヌのアルベルト・コンタドールが山岳で揺るぎない走りを見せた

ライバルはシュレック。親しい仲もついに決裂?

アルプス初日の第8ステージでも、コンタドールは区間優勝のシュレックから10秒遅れでゴール。翌ステージでマイヨジョーヌはシュレックのものになった。この時点で総合優勝争いはシュレックと、それを41秒差で追うコンタドールの2人に絞り込まれた。

中央山塊のマンドにゴールする第12ステージで、コンタドールはシュレックを引き離すことに成功したが、区間勝利に固執したばかりにゴール時点ではわずか10秒しか稼ぎ出すことができず。タイム差は再び31秒になった。

そして運命の第15ステージ。ピレネーのポルトデバレスを上る山岳区間がキーポイントとなった。残り21.5km地点を頂上とするカテゴリー超級の峠で、コンタドールはアシスト役のビノクロフとともにシュレックの様子をうかがった。長い峠道で山岳スペシャリストのシュレックに差をつけることは容易ではなかった。

ツールマレー峠

頂上まであと3kmという地点でマイヨジョーヌを着るシュレックのほうが先手を打った。急加速によって一気に差を開く。あわててビノクロフがこれを追う。コンタドールは反応がわずかに遅れた。ところが次の瞬間、シュレックのペースが明らかにダウンした。

「ここだ」とばかりにコンタドールがカウンターを仕掛けた。この時点で総合3位のサムエル・サンチェス、同4位のデニス・メンショフも追従。

シュレックはフロントチェーンリングのチェーンを脱落させていた。あわててしまったのはシュレックだ。一度自分でかけ直すが失敗。再び地面に足をつけて震える手でチェーンをかけ直した。わずか十数秒のことだったが、上りでコンタドールらに追いつくことができず、ゴールまでの下りでも追いつけなかった。シュレックはこの日39秒失った。総合成績は8秒差で2位になっていた。

ゴール後の記者会見に出席したコンタドールは「ここでタイムを稼げたのはうれしい限りだ」と語り始めたが、記者団が「シュレックのメカトラブルは見ていたのか」という質問に、笑顔が消えた。

「見ていない。シュレックがペースダウンしたのは知っているが…」

ホテルに到着して国際映像で流されたそのシーンを見て、コンタドールはさらに青ざめたはずだ。すぐに緊急のビデオ出演。「シュレックのトラブルに乗じるつもりはなかった」と謝罪した。

2010ツール・ド・フランス

マイヨジョーヌが不運で遅れたときは待たないといけないのか?

マイヨジョーヌがトラブルに見舞われ、それで総合優勝の行方が大きく変わっていくという例は過去にもある。今回はまさに大詰めの、それも最大の勝負どころでトラブルが起きた。それはシュレックにとって不運なことだったが、コンタドールのアタックまで否定するものではないというのが、プレスセンターの雰囲気だった。

じつは第2ステージでシュレック兄弟が落車で遅れたとき、メイン集団が彼らの復帰を待ったというのも異例だった。もしこのとき、コンタドールを含めた有力選手がペースダウンに同意しなければ、アンディ・シュレックは大会3日目にして総合優勝争いから脱落していたとしても不思議ではない。

ゴール後は悪態をついたシュレックだったが、コンタドールの対応に翌日には冷静さを取り戻したのはさすがだった。

2010ツール・ド・フランス

コンタドールはこれまで、アームストロングの急先鋒として期待され、人気が高かった。そのアームストロングが失速したことで手のひらを返すかのようにアンチコンタドール化したファンは無情だ。

「精神的には昨年よりもツラい大会だった」とコンタドールが語った理由は、表彰式で耳に入ったブーイングだろう。

ランス・アームストロングが最後のツールマレー峠でアタックし、意地を見せた

第97回ツール・ド・フランス。新城に幸運の女神はほほえんだか?

「逃げます!」と宣言するのは簡単です。でも実際にはとんでもなく難しいことなんです。簡単にできることだったら、さっさとやっています。

国際映像に向かって手を振ったり、沿道の日の丸にこやかにほほえんだりしながらも、新城幸也は苦悩していた。だってツール・ド・フランスには21の白星しかないからだ。そのなかには個人タイムトライアルがあり、さらに急峻な山岳ステージを差し引くと、新城のようなアタッカーが勝負できるステージは片手の指の数ほどしかない。

数少ないチャンスをいかにものにするか。ずば抜けた実力とともに、そのときの運も味方につけなければならない。

2009年のツール・ド・フランスに初出場した鉄馬(カミンマ)こと新城は、マスドスタートの最初のレース、つまり大会2日目の第2ステージでいきなり区間5位に食い込んだ。世界中が驚いただろうが、取材歴が20年以上になるボク自身もビックリした。

当然のように日本のファンの期待は一気にふくらんだ。「出場するからには勝ちにいかなきゃ意味がない」と意欲を語る新城の表情に、心の中ではプレッシャーにもなったはずだ。

新城幸也のチームジャージにはエリとソデに元日本チャンピオンの誇りを配置

昨年の経験があるので、23日間のペース配分がわかっているのが強み。

複線は5月のジロ・デ・イタリア。距離162kmで行われた第5ステージで新城は15km地点で単独アタック。これに他の3選手が追従してゴールまで逃げまくった。途中で1選手が脱落すると、数にものを言わせた後続の大集団が残り1kmで3人を飲み込もうとしたが、ここから新城が起死回生のスパート。大集団からまんまと逃げ切った。

空気抵抗の大きい先頭を突っ走ってゴールを目指した新城は、最後にパワーを集中させることができずにクイックステップのジェローム・ピノーに優勝をさらわれ、3位となる。

「悔しい。こんなチャンスは二度とないかも知れないのに。日本のみなさん、ごめんなさい!」

この年のツール・ド・フランス開幕時、「ピノーに会ったら両手を差し出して、なんかプレゼントはないの?って言うんだ」と新城は冗談っぽく語っていたが、そのピノーには貴重なアドバイスをもらった。

「ああいう無謀なアタックを20回やって、1回勝てたらもうけもの。ツール・ド・フランスとはそういうものさ」

新城幸也が2年連続でシャンゼリゼに帰ってきた

目立つことだけでなく、キッチリと仕事をこなす

チームはスプリンターとしての新城の実力を高く評価している。それでも本人は全面的にスプリンターであることを否定する。「スプリンターは最後の勝負まで静かにしていなければいけない。おとなしくしているのは退屈で好きじゃない。アタックしたほうが楽しいじゃないですか」

ツール・ド・フランス2回目の休息日にて。日本人記者が集まった記者会見もリラックスして臨めるようになった。これも2年目の実績である。

2年連続出場を決めた新城は、2009年以上に総合力を高めていた。第11ステージでは区間6位。それ以外の平たんステージでもトップが見えるところで勝負に加わった。すべてスプリンターとしての実績だ。

しかしアタッカーとしての新城はヨーロッパの列強に封じ込められたと言っていい。

「ツール・ド・フランスのようなメジャーレースが、スタート直後の1回のアタックで決まってしまうのは絶対におかしい!」

新城がいつもとは違う口調で吐き捨てたことがあった。

つまり自転車レースというのは駆け引きや心理作戦があり、総合成績と区間勝利が同時進行で展開していく複雑さがあって興味深いのだと。それが序盤の単調なアタックで決まってしまうのは我慢ならないということだ。

その一方で新城が前に出ようとしたときには封じ込められる。「日本人に勝手なことをされては困る」という意志があるかのようだ。

それを打ち破るのは容易ではない。次は果たせなかった一発勝負を。そして5年後には総合優勝を争うオールラウンダーに。夢が夢でなくなる時代は確実に近づいている。


ツール・ド・フランスの歴史は講談社現代新書のKindle版にしっかりと書いてあります。

【ツール・ド・フランスリバイバル】
2009年に戻る≪≪≪  ≫≫≫2011年に進む

🇫🇷ツール・ド・フランス2020特集サイト
🇫🇷ツール・ド・フランス公式サイト

【ツール・ド・フランスリバイバル】2009年は別府史之と新城幸也が初完走

2008年は所属するアスタナチームが過去に巻き起こした複数の薬物騒動を理由に、ツール・ド・フランス主催者からシャットアウトされたスペインのアルベルト・コンタドール。2009年はマイヨジョーヌ奪還を目指してツール・ド・フランスに乗り込むが、米国のランス・アームストロングが現役復帰してチームメートに。コンタドールはチーム内に最大の敵をかかえながら戦うことになった。

開幕地モナコで。左から別府史之、佐藤琢磨、新城幸也

ピレネー山脈の山岳ステージに突入した第7ステージでコンタドールは首位から6秒差に浮上。アルプスの第15ステージでコンタドールがアームストロングを含むライバルに差をつけてゴール。マイヨジョーヌを獲得した。

「重要なことはライバルに差をつけたことだ。アームストロングに、ってことじゃないけど」

コンタドールはさらに最後の個人タイムトライアルも圧勝。最終日前日のモンバントゥーでもアンディ・シュレックを逃がすことなく同じタイムでゴールラインを踏み、2年ぶり2度目の総合優勝を決めた。

ツール・ド・フランス2009

この年は日本の別府史之(スキル・シマノ)と新城幸也(Bboxブイグテレコム)が、1996年の今中大介以来13年ぶりとなる出場を果たした。第2ステージで新城が日本勢最高位となる区間5位(現在でも最高位)。シャンゼリゼにゴールする最終日は別府が敢闘賞を日本選手として初めて獲得した。

最終的に2人は日本勢として初の完走を果たす。未知の領域でバトルし、世界最高峰の大舞台で互角に戦ったことは、日本自転車界に大きな史実として永遠に刻み込まれた。

2年連続の総合優勝を達成したマイヨジョーヌのコンタドール

サムライジャポン、フランスで存在感を見せつける

第96回ツール・ド・フランスはコンタドールの周到な勝利、4年ぶりに復帰したアームストロングの可能性と限界、将来性をさらに高めたアンディ・シュレックの存在などに関心が寄せられたが、存在感あふれる別府史之と新城幸也も現地をわかせてくれた。

別府と新城という日本勢2選手が出場した大会。日本では生中継のテレビ放送やスポーツバーなどで大変な盛り上がりを見せていたというが、現地でも反響は大きかった。開幕時から各国のメディアが2選手を積極的に紹介。そしてそれを追いかける日本の報道陣にも関心が寄せられた。

モンバントゥーを走るマイヨジョーヌのコンタドール

当初は物珍しさがあっての紹介だったが、日を追うごとに2人の実力を評価する論評が目立ち始めた。当初の「日本の選手」という記述やコメントから「ベップ」「アラシロ」という固有名詞に変化していったのは、2人がツールという最高峰の舞台で認められたということ。

米国勢初のツール出場は1981年のジョナサン・ボイヤーで、1986年にはグレッグ・レモンが総合優勝を達成。あっという間に総合優勝10回を達成したことをヨーロッパの報道陣は記憶の片隅にとどめているだろう。

そういった意味もあり、ディフェンディングチャンピオンのカルロス・サストレよりも日本勢のほうが取材陣に追いかけられるという状況が訪れる。Bboxブイグテレコムに関しては、区間勝利したトマ・ボクレールやピエリック・フェドリゴよりも新城のほうが関心を寄せられたが、新城自身が「チームの雰囲気」を大切にするために苦心したようで、ぎこちない関係にはならなかったのは幸いだ。

沿道で2選手を応援していたのは日本からやってきたファンだけではない。現地駐在の日本人が得意げに日の丸を掲げていたのをはじめ、地元フランスの人たちの中で日本文化に興味を持つ人たちの姿がきわだった。

モナコ在住の元F1レーサー、佐藤琢磨が別府史之にエール

特にコミックやアニメに影響を受けた中高生が2人を憧れのまなざしで見ていたことが印象的。どこで調べたのか、多少の間違いがある日本語を段ボールや横断幕に書き込み、2選手に声をかけることもなく遠巻きに、意外とシャイな素顔を見せながら応援。でもその視線はとても熱いものがあった。

フランスのかわいい女子中学生たちが、フェイユやカザーじゃなくて、別府と新城を応援しているのよ。どういう現象なのか、信じられなかった。

シャンゼリゼにゴールしたときに新城が、日本自転車界にとっては「月に踏み出した一歩です」とコメントしたが、2人がフランスに残した足跡はそれ以上に大きいかもしれない。

開幕地モナコで決意を語る新城幸也

日本人で完走を果たしたのは2選手だけではない

開幕地のモナコで、リクイガスの中野喜文マッサーがこんなことを言っていた。

「ツール・ド・フランスの現場で頑張ってきた日本勢は、メカニックがいて、報道陣がいて、(もちろんマッサーがいて)あとは選手だけだった。これで全部そろいましたね。初日のタイムトライアルを見ていたら、涙が出てしまった」

中野さん自身は、所属選手のリタイア数が多ければレース途中でもイタリアに帰されると語っていたが、ニーバリらの若手の大活躍もあってシャンゼリゼまで完走。「別府も新城も期待以上の活躍だった。でもこれからが重要。これに続く選手が台頭してこなくてはツール・ド・フランスで勝つことはできない」とパリで語っていた。

完走した日本勢といえばもう1人。スキル・シマノのスタッフとして全日程で走り回った今西尚志だ。自身もシマノレーシングで活躍していた選手だったので、「ツール・ド・フランスで走る姿を夢描いたのでは」と聞いてみた。

「いや、想像すらできないほど遠く離れた世界でしたね。だからそれを実現した別府も新城も、プロ選手として本当に尊敬できる」

チーム内での今西の役どころは、簡単にいうと雑用係だった。別府に群がる日本人取材陣の要望を処理したり、要人を空港に送迎したり、補給食渡しや選手の世話もこなした。それがツールの現場を知る一番いい役割だからだ。

別府史之が最終日のシャンゼリゼでアタック!

格下クラスのスキル・シマノがトップチームと互角に渡り合ったのも驚異的だ。たとえばツール・ド・フランスで暴れ回ってきたゲロルシュタイナーだって、初出場の時は選手もスタッフもツールの特殊な動きが理解できず、トンチンカンな行動で失笑を買っていた。だから「別府も苦労するのでは」と思っていたのだが、スキル・シマノはチームスタッフが完璧にツールの動きをこなしていたのが印象的だ。これなら選手はレースに集中できる。

「彼らが今後、大きな舞台で立派なリザルトを残しても、今回のように日本選手だからという特別な報道のされ方はしないでしょう。彼らは日本人選手が世界の舞台で戦えることを証明し、日本人選手という枠を脱して世界水準の立場に立ったんですから」と今西。

日本人プロとして初出場した今中大介が現地に顔を出したのが第15ステージ。スタート地点に2選手を訪ねて激励するとともに、「ボクは14ステージでリタイアだっただけにスゴいと思う。しかも堂々トレースで渡り合っている」とリスペクトした。

今中のこうした言葉に応えた別府。

「第14ステージでは今中さんがリタイアしたことが頭によぎりました。だからゴールしたときは特別の感慨がありました」

新城も「まだまだこれからです。日本人だからという特別な存在として扱われないように、きちんとした成績を残したい」と言葉を交わした。

シャンゼリゼにがい旋した新城幸也

日本の将来性を感じさせた初完走の快挙

13年ぶりに日本勢が出場を果たしたことをきっかけに、今中の偉業を改めて再認識する必要がある。今回の2選手のように優勝争いに絡みながら完走を果たしたわけではないが、1996年と現在を単純に比較するのは間違いだ。

1990年代後半は競技距離が長く、現在よりも過酷な状況下に置かれた選手たちは体力を消耗し続けた。例を挙げれば、1996年の走行時間は2009年よりも10時間も長い。しかも平均時速はそれほど変わっていないのだ。

とあるチームのメカニックとマッサーがこんなことを口にしていたという。

「近年はレース時間が短くなったので、作業に余裕が生まれた。選手たちもホテルに戻って回復にたっぷりと時間を使うことができる」

ゴール後の渋滞回避のために主催者が対策を完璧に乗じていること、各チームがシャワー装備の豪華バスを所有するのが常識になったという環境の変化も加わる。

積極果敢な走りを見せた別府史之が最終ステージで敢闘賞を獲得した

やはりツール・ド・フランス出場は、いつの時代にも金字塔として記憶しておかなければいけない。

そうはいっても別府と新城が未知の領域でバトルし、互角に戦ったことは、日本自転車界に大きな史実として永遠に刻み込まれるはずだ。


ツール・ド・フランスの歴史は講談社現代新書のKindle版にしっかりと書いてあります。

【ツール・ド・フランスリバイバル】
2008年に戻る≪≪≪  ≫≫≫2010年に進む

🇫🇷ツール・ド・フランス2020特集サイト
🇫🇷ツール・ド・フランス公式サイト