ツール・ド・フランストークショーが8月31日に南青山「OVE」で開催へ

ツール・ド・フランスさいたまクリテリウムトークショー、8月31日(金)南青山「OVE」で開催
観覧者40人募集! さいたまクリテリウム観覧席入場券が当たる抽選会も実施

ピレネー山麓は見事なひまわり畑が広がる © ASO

8月31日(金)に南青山にあるカフェ「LIFE CREATION SPACE OVE」でツール・ド・フランスやさいたまクリテリウムにまつわるトークショーを開催する。放送では伝わらないツール・ド・フランスや、開催された街の様子、その名を冠したさいたまクリテリウムの魅力など、初心者からベテランまで楽しめる見どころを紹介する。

トークショーには、ツール・ド・フランスの取材を30年間続けているスポーツジャーナリストの山口和幸氏と、東海大学講師の押見大地氏が登壇。スポーツマネジメント・スポーツマーケティングの分野を専門に研究されている押見氏には、さいたまクリテリウムの開催が地域にもたらすさまざまなインパクトについて専門的な知見を交えながら話してもらう。

特典としてトークショーの参加者全員にさいたまクリテリウムオリジナルステッカーとコースターをプレゼント。さらに、さいたまクリテリウムの観覧席入場券やオフィシャルグッズなど豪華景品が当たる抽選会も実施。トークショーの観覧を希望する人は下記まで。

ツール・ド・フランスさいたまクリテリウムトークショーの申し込み

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2018年もよろしくお願いします スポーツウェブマガジン「PRESSPORTS」

Bonne année !
2018年、おめでとうございます。

スポーツウェブマガジン「PRESSPORTS」は昨年12月1日にスタートして、2018年1月から本格的に稼働していきます。
365日の最新ニュース更新、そしてパワーをつけて影響力のあるメディアに成長していきたいと考えています。

7月にはツール・ド・フランスに30回目の取材へ。そして2020東京オリンピック・パラリンピックに向けた動きを加速。
自転車のある快適ライフを応援する役立ち情報の発信。新年もどうぞよろしくお願いします。

PRESSPORTS・山口和幸(スポーツジャーナリスト)

【Column】ボクのツール・ド・フランスはルーアンから始まった

自転車専門誌のサイクルスポーツが「別冊付録 ツール・ド・フランス 」を初めて発行したのが1989年。今中大介が日本人プロとして初出場を果たす1996年まで1冊まるごと担当してきた。翌年からはフリー記者として全日程を追いかけるようになるのだが、その開幕地がルーアンだった。

1997年のツール・ド・フランス初日。この日から単独取材活動が始まった。© 仲沢隆

今でこそ日本選手が当たり前のように参加するようになったが、20年前はこの世界最高峰の自転車レースに日本選手の姿があることさえまったく想像できなかった。ツール・ド・フランスの厳しさを現場にいて肌で感じているだけに、表彰台に日本選手が乗るということさえイメージできなかった。それほどツール・ド・フランスは、はるかなる存在だった。

開幕を迎えるルーアンの町に立ったときは、クルマを一人で運転しながら全日程を追いかけていけるのだろうかと不安でいっぱいだった。サルドプレスの一番隅に席を取ると、隣に座った記者が声をかけてきた。

「日本選手は出ているのか?」
「いないのになんでいるんだ?」

そう言われるのは当然だったけど、くやしさは飲み込んだ。いつかは日本選手が表彰台に立ってくれると信じて、毎年自費でフランス一周の旅をするしかなかった。

2012年、第4ステージのルーアンでボクが溜飲を下げるときが到来する。新城幸也が4km地点でアタックし、ゴールを目指して逃げに逃げて最終的に捕まったのだが、敢闘賞を獲得。日本選手が表彰台に上る歴史的な日となったのである。

で、表彰式。カメラマンは舞台の正面に陣取れるが、ボクのIDは記者なので表彰台の裏側しか入れない。それでも着替えを済ませた受賞者はコンタクトエリアでテレビ局、地元ラジオ、そして活字メディアの順にインタビューを受ける。ボクは大会のアテンド係に「アラシロの話が聞きたい」と伝え、活字メディアの場所で彼を待っていたのだが、テレビやラジオの取材が終わったとたんに、「さあ、敢闘賞の表彰だ」と連れていかれた。つまり話もなにもできかった。

2012ツール・ド・フランス、ルーアンで敢闘賞を獲得した新城幸也

かくして日本勢初の表彰台。カメラマンや日本の視聴者のみなさんはしっかりと晴れの舞台を見たことだろうが、ボクは舞台裏で司会者ダニエル・マンジャスのコールと大観衆の声援しか聞こえなかった。

しばらくして新城はわれわれ取材陣が待ち構えているところに来てくれたのでしっかりと話を聞くこともできた。そのときのボクは気持ちが高揚していて、しかもすぐに新聞社に原稿を送らなければならなかったので仕事に集中。すでに日本の朝刊の締め切りは過ぎていたので、翌々日になってしまったが日本のスポーツ新聞として初めて一面トップで自転車記事を掲載した。

夜遅くルーアン郊外のホテルに入って奇跡的に開いていたレストランで食事をして、ようやく部屋で落ち着くことができた。別にボクは選手じゃないので、くやしかったことやツラかったことなどないんだけれど、いろいろなことが脳裏をよぎった。よく覚えていないけど泣いたかも。

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