ツール・ド・フランスはパリ郊外にある「目覚まし時計」から始まった

モンジュロンはパリから南に20kmほど行ったところにある小さな町だ。その町外れの交差点の角にカフェがあって、1903年の第1回ツール・ド・フランス、第1ステージがこのカフェの前から出発した。当時は旅人が泊まれる旅籠(オーベルジュ)だったが、現在ホテルズドットコムで検索してもヒットしないので宿泊施設としては営業していない。トリップアドバイザーには「レストラン」として掲載されているので、今でも立ち寄ることはできるようだ。

モンジュロンのレベイユマタン。2003年の100周年ツール・ド・フランスのシーン

2003年のツール・ド・フランスは100周年大会だった。出場198選手はパリの北にあるサンドニのスタッドフランス(フランス競技場)をスタートした。サンドニはフランスの中でもアフリカ大陸からの移民が多く、彼らの多くがフランス人の誇りでもある「自由・平等・博愛」の精神をもって生活している町だ。出場選手らは交通規制されていないパリ市内を27.9kmにわたってパレード走行。たどり着いたのがこのお店の前で、全選手が自転車を降りた。お店の名前はレベイユマタン。réveil(目覚め)にmatin(朝)。邦訳すれば目覚まし時計だ。

レベイユマタンはひとことで言えば、かつてのフランスの田舎町でよく見かけた旅籠だ。1903年7月1日。その日は水曜日だった。午後3時16分、自転車に乗った60人の男たちがこのレベイユマタンの前から一斉に出発していった。観客はわずか数十人。フランスのスポーツ新聞「ロト」が販売部数を増やすために企画したフランス一周自転車レースの誕生だった。ツール・ド・フランスの長い歴史はこうして目覚めたというわけだ。

第1回大会の第1ステージはレベイユマタンの前からリヨンまでの467km。翌2日の朝7時には最初の選手がリヨンにゴールするのだが、想像以上に早く到着したのでゴール地点に指定されたソーヌ川の河岸でだれもこの選手を迎えられなかったという。トップで第1ステージを制したのは32歳のモリス・ガランだった。口ひげをたくわえた身長162cmのフランス選手だ。パリで煙突掃除を本業としていた職人は、当時から自転車による長距離レースの強豪選手だった。

結局ガランは、パリまでの全6ステージのうち3ステージで優勝。総距離2428kmを走り、一度も首位を譲り渡すことなく、総合2位のルネ・ポチエに2時間49分45秒差をつけて優勝を飾った。平均時速26.450kmという記録は、当時の自転車の性能を考えると信じられないほどのスピードだ。

残り1kmはデニニエキロメトルと呼ばれ、赤い炎という意味のフラムルージュが掲げられる

日本でツール・ド・フランスがおなじみになった近年は、パリ以外の都市で開幕し、パリにゴールすることが常になった。ただし歴史をさかのぼれば、1926年を例外として1950年までは必ずパリをスタートし、そして今日まで変わらずパリにゴールするというスタイルが取られた。

厳密に言えば、行政上のパリ市内を出発するのは第2回大会からで、第1回はパリの旧城門の外にある「バンリュー(郊外)」と呼ばれるエリアをスタートしたのだ。その理由はツール・ド・フランスが認知されていなかったからだ。第1回のゴール地点も正確にはパリではなく、パリ近郊のビルダブレにゴールした。それでもこの第1回大会の模様がまたたく間にフランス国民の関心を誘い、一気に認知度を高めた。その恩恵を受けて翌年からパリをスタートし、パリ16 区のパルク・デ・プランスにゴールすることを認められることになるのだ。

ツール・ド・フランスの象徴的なシーン。Dというイニシャルで区分される県道を行く © ASO

今でこそツール・ド・フランスのフィナーレといえばパリのシャンゼリゼ通りだが、シャンゼリゼに選手たちが凱旋するようになったのは1975年からだ。パリの目抜き通りを完全封鎖してサーキットコースとして華やかなフィナーレを迎える。政財界の関係者が陣取るスタンドは、7月14日に行われた革命記念日に使われた施工物を置きっ放しにしておいたもの。いちおうフェンスは一部にまとめられて往来の妨げにならないようにしているようだ。

2018年の大会は出場選手が1チーム9人から8人に減るので、総勢176選手となる。アルプス、中央山塊、ピレネーという難所を越えてパリに到着する選手が何人になるか。アクシデントなく、ツール・ド・フランスを戦い抜いた選手たちが無事に凱旋することを切に願う。

シャンゼリゼにツール・ド・フランスが凱旋するようになったのは1975年からだ © ASO

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