スペインのアルベルト・コンタドール。ツール・ド・フランスとジロ・デ・イタリアで各2勝、ブエルタ・ア・エスパーニャ3勝の実績を残したが、幾多のケガや薬物騒動にほんろうされた選手生活だった。連載コラムにかつての名選手を紹介する物語を追加。
小鳥が好きな優しい少年は4歳年上の兄に影響されて自転車を始めた。弟は脳性麻痺で、それが今日を運命づけた。「もっと真剣に生きなきゃ」と、波瀾万丈のプロ選手になる決断ができたのも弟がいたからだった。
2003年、マノロ・サイツ監督に見出されてスペインのオンセ・エロスキでプロデビューした。ところが翌年、レース中に気絶して落車し、頭部を強打。脳から出血して一時は生死の境をさまよった。緊急手術で一命を取り留めたが、意識を失う脳障害があることが判明し、その1カ月後に大手術。奇跡的に成功した。
「ボクはあのとき健康な生活が取り戻せればと願っていただけだった」
復帰後は躍進した。しかし2006年。スペインを舞台とした血液操作疑惑「オペラシオンプエルト」でサイツ監督が逮捕された。そして疑惑選手の名簿にコンタドールの名前があった。その後の調査で無関係であることが認められ、すぐにレース復帰を果たすが、チームが空中分解したことで米国のディスカバリーチャンネルに移籍する。
2007年のツール・ド・フランスはマイヨジョーヌを着用するミカエル・ラスムッセンが第16ステージ終了後にチームから解雇された。チームがラスムッセンの不正薬物使用を突きとめて、レースをリタイアさせたのだ。その時点で総合2位にいたコンタドールが首位となり、そのまま初優勝を遂げることになった。
2008年は所属チームが過去に巻き起こした複数の薬物騒動を理由に、ツール・ド・フランス主催者からシャットアウト。2009年はマイヨジョーヌ奪還を目指してツール・ド・フランスに乗り込むが、7連覇を達成して引退したはずのランス・アームストロング(後に薬物使用で全記録はく奪)が現役復帰して同じチームに。コンタドールはチーム内に最大の敵をかかえながら戦うことになったが、3年ぶり2度目の総合優勝を決めた。
順風ではない選手生活だが、コンタドールの果敢な走りは日本を含めて多くのファンの心を魅了した。現役最後のレースとなった2017年のブエルタ・ア・エスパーニャでも総合優勝するクリストファー・フルームが「コンタドールのあきらめない精神はまったく変わらない」と舌を巻くほど。最終日前日、最後の山岳区間では最難関のアングリル峠でアタックを決めて区間優勝を遂げた。見事なフィナーレだった。
「15年前にプロ入りしたとき、引退するときもベストコンディションでいたいと願っていた。あのときからボクは常に全力で走ってきたよ。フィニッシュライを通過したときはあのときの思いが叶ったんだと感じた」
アルベルト・コンタドール
1982年、スペイン生まれ。2003年にプロデビュー。山岳コースの過酷な上り坂をダンスするような軽やかなペダリングでライバルを置き去りにして走る姿で人気。ジロ・デ・イタリアは2008・2015年、ツール・ド・フランスは2007・2009年、ブエルタ・ア・エスパーニャは2008・2012・2014年に総合優勝。ツール2010年とジロ2011年にも総合優勝したが、不正薬物使用で後日記録が取り消されている。
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