【マイヨジョーヌ百年物語】ピレネー山麓の鍛冶屋で生まれた伝説

1913年の第11回ツール・ド・フランス。ピレネーの過酷な山岳コースでフランス期待の選手が自転車を折った。
「他人の手を借りることなくゴールする」というルールのもとに彼は14kmの道のりを歩き、鍛冶屋に飛び込んだ。この劇的な現場にカメラマンはたまたま居合わせていない。本人と当時の関係者が証言する真実が伝説となって知られていく。

聖地として多くのサイクリストがサントマリー・ド・カンパンを訪れる

小さな家の壁に刻まれた伝説の物語

日本の6倍という広大な国土を持つフランス。その南西部、スペインとの国境にそびえるのがピレネー山脈だ。標高3000mを超える荒々しい岩肌をぬうように、人々の営みを支える道が伸びていく。

すでに森林限界を超えている。周囲は緑色の牧草地と瓦色の大岸壁のみ。羊飼いが犬とともに群れを追う。すこしだけ湿気を帯びた風に乗って、牛の首につけられたベルの音が遠くから耳に届く。

標高2115mのツールマレー峠はそんなピレネー山脈の中でもとても厳しい山越えのルートにある。東側のふもとにある小さな集落がサントマリー・ド・カンパン。100軒ほどしかない家並みの真ん中には古い教会があり、冷たい泉を広場まで引いて旅行者がのどをうるおせるようにしている。

広場からちょっと下ったところ、村の名前を知らせる看板の脇にとても小さな家がある。今でもだれかが住んでいる、ごくありふれた家なのだが、ひとつだけ違うのは道路に面した壁に御影石の記念プレートが打ち込まれていることだ。

ピレネー山脈のハイキングに訪れた人たちが、しばしばこの家の前にたたずみ、感慨深げにプレートを見つめるシーンをよく見かける。フランス人にとってそこに刻まれた物語は多くの人が知る史実なのだ。

プレートに刻まれた文字はこう語っている。

ツール・ド・フランス百年の歴史において、ウジェーヌ・クリストフの伝説をしのぶ
1913年
このサントマリー・ド・カンパンで壊れた自転車を自らの手で溶接したからである

1903年に始まったツール・ド・フランスは、自転車に乗った選手たちがフランスを一周し、だれが最も短い所要時間でパリのゴール地点に到着するかという、とてもわかりやすいルールを打ち出した。娯楽の少なかったフランスの地方都市では、家族や地域の人たちと夏祭りのように楽しめるイベントで、あっという間に人々の興味をそそる存在となっていく。

ツールマレー峠はツール・ド・フランスになくてはならない難所だ

自転車は19世紀の中ごろに誕生し、その後しばらくは移動手段や荷物運搬の道具として進化を遂げていく。19世紀後半になると「速く走る」というスポーツの道具となるのだが、人間の力だけで勝負を決するというわかりやすさがあって、1896年にアテネで開催された第1回近代オリンピックから正式種目として採用されている。

20世紀に入るとサーカスのような興業イベントとして、自転車レースはヨーロッパの各地で行われるようになり、1903年には後に世界最大の自転車レースとなるツール・ド・フランスが始まるのだ。

ただし、始まって間もないころのツール・ド・フランスは競技ルールが必ずしも確立されていたとは言い切れない。言い換えれば、現在よりもかなり人間の野心や思惑に揺れ動くスポーツで、そこにはおきて破りと思われる信じられないエピソードも記録されている。

ツールマレー峠のふもとにある小さな村の伝説も、もしかしたらそのなかもひとつなのかもしれない。

ピレネーのツールマレー峠はほぼ毎年ツール・ド・フランスに採用される

過酷な山岳の導入で人気スポーツに

スポーツとしての魅力を定着できないでいたツール・ド・フランスに大変革をもたらしたのが、創始者でもあるアンリ・デグランジュの発案だった。1910年、第8回大会にデグランジュはだれもが創造すらしていなかった突拍子もないことを持ち出すのである。

「自転車であの山を越えることができたらすばらしいだろう」

ピレネー山脈を見上げていたデグランジュの目は夢に輝いていた。

「いや、それは無理だ」

当時の選手たちはハンチング帽を小意気にかぶって、おそろしく古風な自転車を走らせていた。もちろん変速機はない。上りも下りも、平坦路もひたすら同じギアでペダルをこぎ続けた。各選手はタイヤのパンク時に備えて、予備のタイヤを背中にたすきがけに背負って走行していた。

「でも演じられたことのないようなドラマを大観衆は目撃できるはずだ。翌日には新聞の一面を飾り、手に汗を握るようなレース展開が全国に報じられる。これこそがツール・ド・フランスのやるべき道なのだ」

サントマリー・ド・カンパンの集落入口を示す看板を過ぎるとすぐ左手にかつての鍛冶屋がある

こうしてその年に参加した136人の選手たちは、それまでの常識をはるかに超えた過酷な上り坂を体験することになる。ピレネーの4つの峠、ペイルスールド、アスパン、オービスク、そして最も標高の高いツールマレーがコースに加えられた。

選手にとってはものすごい苦しさとの戦いだった。

「まるで裁判にかけられているようだ」

とある選手は主催者をののしった。最初の山岳区間だけで26選手がゴールできずにレースから去ることになる。

すぐに新聞が「過酷な山岳は勝負を決する治安判事だ」とかき立てた。これに呼応するように、上り坂で展開する真剣勝負を見ようとフランス中から大観衆が山岳区間に集まるようになり、裁判の傍聴者として歴史を刻んでいくいくつもの名勝負を目撃することになる。

その年はツールマレー峠を一番速く上ったオクタブ・ラピーズがそのときに広げたタイム差を利して総合優勝した。さらにフランス東部のアルプスもルートに組み込まれ、レースは過酷さを極めていく。

過酷な山岳は「地上で最も過酷なスポーツ」ともいわれるツール・ド・フランスの大舞台となった。以来、山岳区間を制する者がツール・ド・フランスを制することが常となっていく。

峠からの下り坂で待ち受けていた悪夢

かつての鍛冶屋は現在民家となっている

1913年のツール・ド・フランスは初めて時計と逆回りのコースを取った。つまりアルプスよりも先にピレネーを体験することになったのだ。大西洋に面したバイヨンヌからピレネー山中のリュションまで、距離326kmという第6区間でその伝説は生まれた。

フランスのウジェーヌ・クリストフ。前年の大会では凍りつくような雪に見舞われたアルプスで大活躍し、いきなり総合2位に食い込んだ。厳しい上り坂を得意とする選手で、ツール・ド・フランス史上初めて登場した山岳スペシャリストだった。この年は28歳と円熟の機を迎えていた。

前年の大会でクリストフはフランス期待の選手として最も高い人気を誇った。しかし後半のピレネー山脈で安定した走りを見せたベルギーのオディル・ドフレイエが首位に立つと、終盤はベルギー選手全員がドフレイエを援護するという作戦を見せて、隣国ベルギーに初めての栄冠をもたらせた。フランス国民にとってそれは許されない行為で、スポーツマンらしくないと切り捨てる人もいた。

そんないきさつもあって、この年のツール・ド・フランスでは「フランスのクリストフが初優勝してほしい」という期待がフランスファンの中にわき起こっていた。

ツールマレー峠を通過する大勝負は第6区間だ。ルートは峠の西側から上り、距離18kmで高低差1375mを駆け上がる。さらに真夏でも凍りつくような冷気が吹き抜けるツールマレー峠の頂上を越え、東麓のサントマリー・ド・カンパンまで16.5kmを下っていく。

このコースで最も過酷なのはもちろん上り坂だ。照りつける太陽と激しい息づかいにあえぐ選手は、大粒の汗をほとばしらせながら、ひたすら頂上を目指す。平地ではなかなかタイム差がつきにくいが、上り坂で気を抜けばあっという間にライバル選手に置いていれてしまうだろう。

そしてひとたび峠を越えれば、一転して体温を奪うダウンヒルが待ち構えている。汗は一気に氷のように冷たくなる。曲がりくねった下り坂は、一瞬のブレーキコントロールを間違えれば、崖下に陥落する危険性が常につきまとう。

ツールマレー峠。風に吹かれた落石がカラカラと音を立てて斜面を転げ落ちていく。ガードレールなど人の手を借りた造作物はほとんどない。命知らずの男たちはハンドルを両手で握りしめながら時速100kmというスピードでゴールを目指していくのである。

ゴールしたいという一心で愛車を溶接

壁にはツール・ド・フランスの伝説を記したプレートがある

このツールマレー峠で一気に総合トップに躍り出る計画のクリストフは、ツールマレー峠の頂上を区間2位という絶好の位置で通過していた。ゴールまではまだ距離があったが、ライバルとにらんだベルギー選手は大きく遅れていた。悲願の総合優勝が大きく見えてきた瞬間だった。

クリストフはすこしばかり焦っていたのかもしれない。そのため下りの曲がり角で自転車のコントロールを失う。気がついたときには道路を外れて崖下に転がり落ちていた。傷だらけの体ですぐに起き上がって、再び走り始めようとして絶句した。

自転車の鉄製フレームが、転落の衝撃で真っ二つに折れてしまったのだ。

「まずい!」

リタイアが頭をよぎった。でもあきらめられない。フランス国民が彼の勝利を期待していたからだ。

「歩こう。とにかくゴールにたどり着こう。この区間を乗り越えたら、パリまでにチャンスが巡ってくるかもしれない」

折れた自転車を担いで歩き始めた。それしか方法がなかったからだ。背後からは他選手らがものすごいスピードで抜き去っていく。その中には優勝候補のベルギー選手もいたはずだ。もうなにも目に入らなかった。

クリストフが14kmの道のりを歩いてたどり着いたのがサントマリー・ド・カンパンだ。小さな村だったが、クリストフは自転車を抱えたままなにかを必死になって探した。

「あった!」

それは1軒の小さな家だった。どんな小さな村にも必ずある鍛冶屋だ。

たまたま居合わせた鍛冶職人の顔を見るや、クリストフは両手を合わせて嘆願した。

「ご主人。ここに22cm径のパイプはあるかい?」

職人はいきなりの訪問者の意図を察して、こう返した。

「あるにはあるけど、切れっぱしだからな。あまり役には立たないかもしれんな」

しかしクリストフにはもう手段がなかった。

「溶接道具とそのパイプを貸してください。ボクは自転車を直してゴールを目指さないといけないんです」

時間は刻々と過ぎ去っていく。「他人の助けを受けた時点で失格」というルールがあり、熟練の職人も助言を口にすることはできなかった。

実はこの鍛冶屋での出来事を報道カメラマンは写真に納めていない。すでに先頭集団ははるか前方を走り、ゴールを目指していて、クリストフの復帰はないと判断したからだ。その場所に居合わせた関係者の証言をもとに描かれたイラストが、この伝説を読み解く唯一の手がかりだ。それによれば、クリストフの後ろには複数の審判員と溶接職人らしき人物が見守っている。

自転車はハンドルとサドルを結ぶフレームの骨格部分が折れていた。それを溶接するためにハンマーでパイプをつなぐ材料を打ち込み、その上から溶接して修理をした。

すでに4時間が経過していた。さらに途中でオートバイによるサポートを受けた違反で、クリストフは3分のペナルティも科せられた。

クリストフは自らの手だけで修理を終えた。

「ちゃんと直っているか1分もあればチェックできるだろうが、それも今は惜しいんだ」

再び走ることが可能になった自転車に飛び乗って選考するベルギー勢を追いかけた。ゴールまでにはツールマレー峠と同じような難所がある。アスパン峠、そしてペイルスールド峠を越えた。自転車は壊れなかった。リュションにゴールしたのは奇跡に近かった。

しかし区間29位。失った時間は3時間50分14秒。この日終わってクリストフは首位から3時間22分16秒遅れの総合10位に大きく後退。そしてもちろんパリまでに逆転することは不可能だった。

マイヨジョーヌに初めて袖を通した選手に

2014年に作られたクリストフの像

1914年6月28日、サラエボでオーストリア大公が狙撃されるという事件の数時間前にツール・ド・フランスは開幕した。発砲事件はその後、第一次世界大戦として拡大し、ツール・ド・フランスも翌年から4年間の開催中止に追い込まれた。

不運の自転車欠損というアクシデントのリベンジをねらうクリストフが、再びツール・ド・フランスに挑戦できるのは1919年まで待たなければならなかった。

そして1919年。この第13回大会から、個人総合成績の1位選手は「マイヨジョーヌ」とよばれる特別のジャージを着用して走るというルールが制定された。マイヨはジャージ、ジョーヌは黄色という意味のフランス語だ。

「集団の中でだれが首位の選手なのかを見分けられるようにしてほしい」という記者からの要望だった。シンボルカラーを黄色にしたのは、主催するスポーツ新聞「ロト」の紙の色が黄色だったからだ。

この年の第1区間で優勝し、初めてマイヨジョーヌを着用したのがクリストフだった。

しかしクリストフの身に再び不運がふりかかる。

総合2位に30分差をつけながら、最後から2番目の区間でフロントフォークを折ってしまい、2時間という致命的な遅れを取る。マイヨジョーヌを手放すことを余儀なくされた。

クリストフは最終的にツール・ド・フランスの歴代優勝者に名を連ねることはなく、「初めてマイヨジョーヌを着用した選手」として人々の記憶に残るだけになる。

こうした初期の激闘は、フランス以外の人々の感動を呼び、国際大会へと成長していく原動力となった。競技ルールも整備され、クリストフのような不運で栄冠が左右されることがないように、交換用の自転車や車輪が用意されるようになった。

サントマリー・ド・カンパンの民家の壁に打ち付けられた石碑は、長い年月による風化で文字が読みにくくなり、何度か作り直されている。その伝説から100年という歳月を経た2003年7月に埋め込まれた新しい石碑はこう締めくくっている。

「ウジェーヌ・クリストフは総合優勝の実力を持ちながら、優勝のチャンスをすべて失った。しかし彼の行動は勇気と希望を与えてくれるものだった。
ツール・ド・フランスは彼の不屈の精神を尊敬し、長く後世に伝えていく使命がある」

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