スポーツ界のアカデミー賞で大谷翔平の初受賞なるか?

スポーツ界のアカデミー賞と呼ばれるローレウス・ワールド・スポーツ・アワードの2025年候補選手ノミネート投票が始まり、主催者が2024年に大活躍した注目選手としてプロ野球メジャーリーグ、ロサンゼルス・ドジャースの大谷翔平をピックアップした。

男子テニスのノバク・ジョコビッチ(左)とサッカースペイン代表のアイタナ・ボンマティが2024ローレウス最優秀選手賞

毎年開催されるローレウス・ワールドスポーツアワードはスポーツの偉大な功績から、ピッチ外での感動的な取り組みまで、スポーツ至高性を称えるもの。男女別の最優秀選手部門を筆頭に、最優秀チーム、最優秀成長選手、最優秀復活選手、最優秀障害者選手部、最優秀アクションスポーツ選手の部門がある。

選出の仕組み…記者投票で候補リスト→スポーツ界のレジェンドが選考

最優秀選手の対象はあらゆるスポーツ界で2024年に活躍した選手。まず100カ国以上・1000人を超えるスポーツジャーナリストが投票を行い、優れたスポーツの業績を達成した最終候補者リストを作成する。

12月9日から投票が行われ、指名されたジャーナリストが各部門の1位から6位までをネット投票する。上位の選手ほど配点が高い。あらかじめローレウス側でピックアップした選手もあるが、リストになくても「選手名・国籍・競技」を入力すれば有効。2025年はこのピックアップリストに最優秀男子選手部門に大谷、最優秀アクションスポーツ選手部門に堀米雄斗が挙げられた。堀米は2022年に続くピックアップ。

テニスの大坂なおみが2021年に最優秀選手賞を受賞

2021年は大坂なおみが日本人初となるローレウス年間最優秀女子選手賞を受賞している。大谷は2022年に今回と同様にジャーナリスト投票の際のピックアップ選手となっていたが、最終候補の6選手には入れなかった。

F1のマックス フェルスタッペン(オランダ)、 柔道のテディ・リネル(フランス)、自転車ロードのタデイ・ポガチャル(スロベニア)らがライバルとなる。

羽生結弦の並外れた人生とキャリアをイタリア紙が独占インタビュー

イタリアの大手日刊紙『コリエレ・デラ・セラ』がプロスケーターの羽生結弦さんのキャリアと人間性を独占インタビューする形式で報じた。執筆は同紙文化部のコスタンツァ・リッツァカーサドルソーニャ。

羽生結弦の魅力を語ったイタリア紙の特集を紹介したAIPSページ。平昌2018冬季五輪で金メダルを獲得した時の画像をピックアップ。撮影はハリー・ハウ/ゲッティイメージズ

国際スポーツプレス協会(AIPS)のウエブサイトがこの記事をピックアップ。同協会は、過去100年間で最も偉大な男性アスリート10人の1人(6位)に羽生さんを選出している。

ミラノ、2024年12月6日。私が初めて羽生結弦のスケートに惚れ込んだのは、フランスのニースで開催された2012年世界選手権のときだった。彼は17歳で、バズ・ラーマン監督の『ロミオ+ジュリエット』に合わせて滑っていた。彼の輝きと決意を私は覚えている。彼は音楽と、自分が演じているキャラクターと完全に一体化しており、ある時点で滑ってすぐに立ち上がった。それは振り付けの一部のようだった。誰もが狂喜し、彼を応援した。解説者が述べたように、彼はまさにロミオだった。(記事冒頭を抜粋)

●The extraordinary life and career of Yuzuru Hanyū, as seen by Italy’s Corriere della Sera

2025世界陸上東京の年末年始特別販売・一般販売スケジュール決定

2025年9月13日から21日まで東京・国立競技場で開催される東京2025世界陸上競技選手権大会の観戦チケットは、年末年始特別販売を2024年12月25日から2025年1月7日まで実施すると発表された。

先行販売で売り切れの席種についても在庫を追加する。先行販売ではすでに20万枚を販売し、チケットの売れ行きは好調。駅伝が盛り上がる年末年始に合わせて、チケット争奪戦となる一般販売を前に、チケットを購入できるチャンスだという。

また、一般販売を2025年1月31日18時(日本時間)より世界中のすべての人に向けて開始。一般販売の詳細については、2025年1月中旬の発表を予定。

●販売詳細はチケットぴあサイト・TBS チケットサイトで
チケットぴあサイト
TBS チケットサイト

【ヒマラヤ未踏峰に挑む】Episode 6/人類初登頂…しかし油断ならない下山路

ヒマラヤにある標高6524mの未踏峰プンギに挑んだ日本山岳会学生部の井之上巧磨(青山学院大)、尾高涼哉(東京大)、中沢将大(立教大)、横道文哉(立教大)、芦沢太陽(中央大)。前回のファーストアタックはいったん撤退を余儀なくされたが、その時の経験をふまえたルート選択で2度目のサミットプッシュ。2024年10月12日午後12時09分(現地時間)、大学山岳部の門を叩いてから積み重ねてきた努力が実った瞬間が! 芦沢がその詳細をレポート。

最後の雪壁を登る中沢

BCに戻って再挑戦のために装備を選別する

ファーストアタックを終えて標高4700mのBC(ベースキャンプ)に戻り、3日間のレスト。標高の高い場所では思ったように身体が回復しないと聞くこともあるが、今回の遠征ではみな元気に回復した。慎重な高所順応と現地コックが作ってくれる日本食のおかげだろう。

身体が回復し始めてからはセカンドアタックに向けた準備を開始。といっても、装備の多くはC1(キャンプ1)、C2、HC(ハイキャンプ)にそれぞれデポしていたこともあり、必要になりそうな装備と要らなさそうな装備を各キャンプで回収するためにリストアップするという作業が主だった。全く情報のなかった頂上稜線まで実際に行ってみたことで、ファーストアタック時に比べて装備の選別はより的確にできるようになった。

アタック装備をまとめたザック(ファーストアタック時)

プンギの頂に向けて再出発。そして目撃した地球温暖化

3日間のレストを終え、再びプンギの頂に向けて歩き始めた。各キャンプに多くの荷物をデポしているためザックは軽く、谷間のガレを軽快に進んでいくと朝のうちにC1(標高5000m)に到着。ここで追加の食料やアイスバイルなどを回収し、もうひとつ上のキャンプであるC2(5500m)へ向けて再び歩みを進める。引き続き谷間を進んでいくと、ゴロゴロとした岩で埋め尽くされた氷河に移り、さらに進んだところで途中の小さなルンゼからプンギ南峰西尾根に乗った。二度目ということもあり順調に進み、昼前にはC2に到着した。

C2に到着してまず思ったことは「雪がない」ということだった。正確には雪がないわけではないが、明らかに融けて少なくなっていた。前回テントを張っていた箇所の雪は融けて岩が露出しており、とてもテントが張れるような状況ではなくなっていた。仕方なく、近くにあった比較的平らな箇所にテントを張ったが、細かい岩が無数に積み重なったような地面であったためにテントのフロアシートを貫通して、持参していたエアマットに穴が開いてしまった。リペアパーツを持っていたために補修することができたが、雪の上にテントを張れていれば必要のなかった手間だと考えると、近年の小雪、融雪の原因である地球温暖化を恨めしく感じた。

融雪の進んだC2付近

BCからC2までは約800mの標高差があるが、ファーストアタックで高所順応が進んでいたため、高山病の症状が出ることはなかった。

ファーストアタックの経験を活かしたルート選択でHCへ

翌日早朝、HC(6200m)へ向けて出発。前回のアタックでは南峰西尾根のリッジを忠実に辿るルートをとったが、そこはもろい岩が積み木のように積み重なった岩稜であった。信頼できる確保支点が取れなかったこともあり、慎重に通過をしているうちにかなりの時間を要してしまった。その反省もあり、今回はリッジの北側をトラバースするルートを選択した。トラバースルートは日の当たらない北側斜面ということもあり、ガレた岩を覆い隠すように積もった雪は融けずに残っていたため、想像していたよりもかなり歩きやすかった。しばらく進むと前回のトレースに合流した。

もろい岩が積み重なった南峰西尾根

1回目のアタックでは、標高6000mでの脛から膝ほどのラッセルに苦しめられ、なかなか前進することができなかった。しかし、今回は順応が進んでいたことに加えてトレースがしっかり残っていたため、非常に快調に標高を稼ぐことができた。前回HCとした6200m地点には午前中に到着することができたため、翌日の行動時間に余裕を持たせるために、よりに本峰に近い地点にHCを設営することとした。

クレバスの合間を縫うようにして越え、薄いトレースを辿り、前回の敗退地点のすぐ手前まで来たところでHCを設営した。前回はHCに到着した時点で日没が迫っていたが、今回は想像よりもかなり順調に進むことができ、お天道様はまだまだ高いところにいた。

HCから見上げたプンギ山頂

二度目とはいえ、6200mになるとやはり高山病の兆候が出始めた。それでも一度目の時よりもだいぶ軽いものであり、意識的な呼吸をしているうちに楽になってきた。念のため就寝前にダイアモックス錠(高山病予防薬)を服用した。

出国から38日、ついにサミットプッシュ当日

待ちに待ったサミットプッシュ当日、朝のルーティンとなっている出発準備をいつも通りこなし、日の出と同時にテントを出る。-20度近くまで冷え込む寒気の中でも、目の前に聳えるプンギを眺める5人の心は熱く燃えていた。

前回の敗退地点である露岩まではすぐに着いた。登り返すためにロープを1本FIXしておき、10mほどの懸垂下降をすると前回の最高到達点を越え、再び未踏の地へ足を踏み入れていくこととなる。ここから先は事前準備の段階から最も警戒していた細い雪稜が長く続く核心部だ。

細い雪稜が長く続く

登攀隊長の尾高(東京大学運動会スキー山岳部4年)と総隊長の井之上(青山学院大学体育会山岳部4年)が交互にトップでロープを張りながら、それに続く形で3人が登っていく。ナイフのように両側が切れ落ちたリッジの上を歩き、時にはリッジの西側に身を乗り出してトラバースをしながら登っていくこと数ピッチ、プンギの肩に出た。ここから先に難しそうな箇所は見受けられない。あとは山頂まで氷河が途切れることなく繋がっていることを祈るだけだ。

後続の3人で最後のラッセルをまわしながら、山頂へと一歩一歩進んでいく。山頂を目と鼻の先に捉えた期待感と、いつどこで氷河が途切れるか分からない不安のなか、先頭を行く中沢(立教大学体育会山岳部4年)の一挙手一投足に自然と注目が集まる。山頂直下の雪壁を超え、ついに登頂かと思ったが、さらに奥に少し高い場所があり、向こうが真の山頂のようだ。

気を取り直して登っていくと、真の山頂の手前に小さな窪みが見えた。最初に気づいたときは窪みの底を目視できず、クレバスが横たわっているのではないかという不安が沸き上がった。しかし、その不安は先頭を歩いていた中沢からの『繋がってる!』の一声で喜びに変わった。

そこからは正真正銘最後の一登り、未踏の頂へのビクトリーロードを辿っていく。2024年10月12日午後12時09分(現地時間)、大学山岳部の門を叩いてから積み重ねてきた努力が実った瞬間だった。

登頂の喜びは束の間…意外と油断できない下山

登頂の喜びも束の間、すぐに下山を始めた。山頂はあくまでも通過点のひとつであり、いままで登ってきた道を今度は降りなければならず、細い雪稜をロープで確保しながら下るにはかなりの時間がかかることが明白だったからだ。

ロープで確保しているとはいえ、足を踏み外せば、振り子のように大きく左右に振られながら落ちることになる。落下の衝撃で支点が崩壊する可能性もあり、失敗は許されない。そんななか、懸垂下降とスタカットを交えて下ること数時間、HCにたどり着いたころには日は沈み暗くなっていた。

HCからの夕暮れ

登頂翌日、プンギ南峰にも寄り道しつつ、HCからBCまで一気に下山した。各キャンプにデポしていた荷物をすべて回収したこともあり、最後のC1-BC間の荷物の重さは30㎏近くだった。

C1-BCでの荷下ろし

1カ月を過ごしたBCに別れを告げ、下界へ向けてバックキャラバン

安全地帯であるBCへ下山し、我々の荷物を運んでくれるポーターであるロバがコト(2600m)から上がってくるのを待つこと3日間、予定通りに10頭のロバたちがやってきた。彼らは人間の倍以上の重量を運ぶことができ、車の通ることができないコトからプーガオンの物流のすべてを担っているといっても過言ではない。そんなロバたちにテントや登攀具などあらゆるものを背負ってもらい、約1カ月を過ごしたBCに別れを告げてバックキャラバンが始まった。

プーガオンから隣村のキャンへ向けて歩いていく

結論から言うと、バックキャラバンはあっという間だった。行きのキャラバンでは順応をしながらということもありベシサハールからBCまで10日以上かけたが、BCからベシサハールまではたった3日しかかからなかった。

途中ロバたちが草を求めて隣村まで脱走するというハプニングはありつつも、荷物を含めて全員無事に街まで下山。コトについて真っ先に飲んだコーラは忘れられないほどに美味かった。

登頂できたポイントを分析すると重要なのはふたつ

今回、体調や天候などさまざまな要因や運がうまくかみ合って登頂することができた。しかしその中でも特に重要だったと思う要因がふたつある。

一つ目は高所順応の期間を長くとったことである。6000mを超えるような高所登山の経験がない我々にとって、高所順応がうまくいくかどうかが今回の登山のキーポイントになると考えていた。学生ならではの余裕を持った日程を組み、少しずつ標高を上げていったことで致命的な高山病を引き起こさずに済んだのではないだろうか。

二つ目はチームワークの良さである。長期間ともに生活する必要のあるヒマラヤ遠征では、何よりも仲の良さやお互いに対する理解が大切になってくる。そのために我々は昨冬シーズンの多くを山でともに過ごし、実際に登山をする中でチームワークを深めていった。そのおかげか、今回の遠征では一度も喧嘩はなく、チーム全員で山頂に立つことができた。

芦沢太陽の愛用品

高所順応のために登った富士山山頂での芦沢太陽

アメリカンコーラ(松山製菓)

いわゆる「駄菓子」で、コーラ味の粉末ジュース。味は市販のコーラにはかなわないが、コーラ味のジュースというよりはコーラそのもの。安くて軽くて美味しいので、長期山行には大量に持っていくことが多いです。今回のBCにもたくさん持って行きました。実は粉のまま食べるのも◎。

チャレンジを終えて…芦沢太陽

未踏峰に登ることに憧れを抱いて大学山岳部に入部し、登山を重ねる中でいつしか憧れは現実的な目標に変わり、その目標がかなった今、大変充足感を覚えています。

そして、実際にヒマラヤに足を運んだことで、今まで何気なく登っていた日本の山々の魅力を再認識することができました。早くも12月になり、大学山岳部にとっては冬山シーズンインの季節でもあるので、これからの山岳部活動が楽しみです。

●中央大学山岳部instagram


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パリ五輪がまさかのブラックフライデー…公式グッズ最大7割引

2024パリ五輪がオリンピックポスター、スポーツウエア、アクセサリー、コレクターズアイテムなどをブラックフライデーとして最大70%引きで12月2日まで発売する。*「あなたやあなたの大切な人への完璧なギフトです!」と言うものの、売れ残った公式グッズなどが対象。

フランスでは法律で1年に2回、夏と冬にソルド(バーゲンセール)をすることが義務付けられ、ソルドの期間は法律で定められていますが、Black Fridayなどソルド以外の名前を使ってそれ以外の期間で値引きが行なわれることもある。

今回のセールは対象商品に限り、12月2日まで有効なオファー。オファーは他のプロモーション、割引、クーポンと併用できない。

パリ2024は終了したが、新しいオリンピックの章が始まろうとしている。オリンピック冬季大会ミラノ・コルティナ2026が2月6日から22日まで開催される。

●2024パリ五輪セールのホームページ

【ヒマラヤ未踏峰に挑む連載再開!】Episode 5/苦闘を乗り越えて決行したファーストアタックだったが…

ヒマラヤにある標高6524mの未踏峰プンギに挑む日本山岳会学生部。総隊長・井之上巧磨(青山学院大学体育会山岳部)、登攀隊長・尾高涼哉(東京大学運動会スキー山岳部)、装備全般・中沢将大(立教大学体育会山岳部)、渉外・会計・記録・横道文哉(立教大学体育会山岳部)、会計・芦沢太陽(中央大学山岳部)がいよいよネパールのアンナプルナ山域へ。その足跡を各隊員が克明にレポート。今回は中沢将大がコトからファーストアタックまでの苦闘を綴った。

メタ村まで来ると少しずつ遠くに雪峰が見えてきた

屈強なロバたちに登山道具から食料までベースキャンプに運んでもらう

コト村からはトレッキングが始まりました。4700m地点のベースキャンプまで、休息日を挟みながら10日間ほどの日数をかけて進みます。初日は標高3600mに位置するメタ村まで行きます。まだモンスーンの季節であるため、道中は他のトレッキング観光客はほとんど見受けられません。

メタ村まで来ると、少しずつ遠くに雪峰が見えてきました。メタ村は丘の上に村を作ったようで、そこで生活する人も見受けられます。

メタ村の次は、チャク村です。標高は富士山頂と同じくらいです。この村には草原が広がっており、たくさんのロバが黙々と草を食べ続けています。実はこのロバたちは、私たちの遠征を支えてくれた重要なポーターさんでもあります。高所でも屈強なため、上りでもグイグイと登り、私たちの登山道具や食料などのほとんどの荷物をベースキャンプまで運んでくれました。

チャク村。ロバが黙々と草を食べ続けている

時が流れても変わらぬ生活を送る人や集落に衝撃を受ける

その後、3900mのキャン村、そして最後の村であるプーガオンに向かいました。プーガオンまで来ると茶色く荒涼とした風景が広がります。トレッキング街道の一番奥の村でとても静かですが、そこには驚きの景色が広がっていました。散歩のついでに村を見渡せる場所まで上がった時に見えたものは、丘の下に階段状に並んでいる土壁でできた住居と、住居の前のスペースで農業の仕事をしている20〜30人の人々の姿でした。

ここまで来るのに、車の通っているコト村から歩いて最低3日はかかりますが、そんな僻地で自給的な生活が行われていたのです。私たちがいつも過ごしている世界とは全くもって異なる、過去に始まって変わらなかった時の流れの中で、人々が生活を送っている世界がそこにはありました。

プーガオンまで来ると茶色く荒涼とした風景が広がる

ついにプンギに出会う。双眼鏡を手渡しながら目を凝らして見た

また、仏教の色も濃く感じます。村の近くにある丘の上には、タシ・ラカンという立派な寺院がありました。チベット文字が刻まれた石と、小さな仏塔が多く並んでいて、村の人々の信仰において重要な場所であるように感じました。

タシ・ラカンは丘の上に位置しているため、そこからは多くの山々を望むことができますが、私たちがこれから登る「プンギ」を初めて目にしたのもこの場所でした。遠くにあるプンギを、みんなで一つの双眼鏡で代わる代わりに、目を凝らしながら見たことを覚えています。

仏教の信仰も色濃く感じる

9月21日。標高4700mに位置するベースキャンプ(BC)に到着しました。その日の夜ご飯はコックさんがカツを出してくださり、持参したうなぎも一緒に食べました。久しぶりの日本食に感動しました。ベースキャンプに滞在している間、ずっと美味しい食事を作ってくださったコックさんには感謝しかありません。

ベースキャンプの食事は最高においしい

翌日は、エージェントの方々を含め全員で、和やかな雰囲気の中でプジャ(お祈り)を行ないました。途中から雨が降るとても寒い中、30分ほど登山の安全をお祈りしました。

冷たい雨が途中から降る中でプジャ(お祈り)

ペースキャンプを発って標高5000mの場所にキャンプ1を設置

9月24日。この日、初めてベースキャンプより上にキャンプを設置しに行きます。いよいよ登山の始まりです。道はなく、まずは手探りでプンギの方向に向かって石がゴロゴロと転がる谷を歩きます。3時間ほど歩くとテントが張れそうな平地があり、綺麗な水も流れていたため、標高5000mのこの場所にキャンプ1(C1)を設置することにしました。プンギに登るための尾根にはまだ達していませんが、山はすぐ近くに見えました。

キャンプ1から目指す山がすぐ近くに見えた

降雪でC1から退避、雪が落ち着くまでは雪合戦をして待つしかない

いったんBCに戻り、またC1に上がった翌日の26日。この日は標高5250mまで偵察を行いました。テントに戻ってゆっくりしていると、雪が降り始めました。夜通し雪は降り、朝になっても雪が止まないため、一度BCに戻ります。雪は、翌日まで止まず、50〜60cmほど積もってしまいました。

日が上って気温が上がると、キャンプの周りの斜面では岩と混じる雪崩が各方面で起きています。雪の積もった斜面が落ち着くまでは日数を要するため、次のアタック予定日を後ろにずらし、数日間停滞することにしました。停滞日は、みんなじっとすることもできず、雪合戦で盛り上がりました。

標高5000mにキャンプ1を設置

巨岩の崩落、雪に押しつぶされたテント…気分は壊滅的

10月1日。斜面がだいぶ落ち着いてきたため、ファーストアタックに向けてC1に向かいました。途中、左側の斜面から岩が崩れ落ちる音が聞こえたかと目を見上げると、軽自動車大の岩が転げ落ちてきました。咄嗟に走り逃げましたが、落ちてきた場所は100mほど先でした。これまで見たこともない大きさの落石だったため、命の危機を感じました。

さらにこの日は災難が続き、C1に到着すると、張っておいたテントが雪で潰されてポールが折れていました。テントの中にあった、荷物も雪が溶けた水で水没していました。これから山頂に向かっていくというのに、早々に気分はめためたにされました。

落ち込んでいても仕方がありません。持ってきてあった修理道具でテントを直し、翌日に向けて備えました。 翌日は、みんなで意見を出し合いながらルートを探り、C2まで向かいました。尾根にのり、標高5500m地点にテントを張ります。私は朝起きると、高所の影響で頭痛と吐き気があり、偵察をみんなに任せることにしました。

みんなで意見を出し合いながらルートを探る

あまり体調はよくならず、翌朝は症状を改善するダイアモックス錠を飲み、C2を出発しました。ルートは岩の稜線を選択しましたが、登りやすくて安全なルートはここではなく、稜線下の斜面をトラバースするルートでした。

懸垂下降でルートに復帰できるポイントまで向かうことにしますが、岩がボロボロですぐ崩れてしまいそうな場所であるため、ロープを繋いで慎重に行きます。落ちることが許されない中、なんとかみな無事に通過でき、懸垂下降でルートに復帰します。怖さもありましたが、ハラハラなクライミングをしている感覚が楽しかった気持ちもありました。

怖さもあったが、クライミングをしている感覚が楽しかった

南峰まであと少しのところで想定外のクレバス帯

その先は急な雪面が続いています。みんなで交代交代にラッセルを行いましたが、かなり消耗させられました。雪面を乗り上げ、「さあ、南峰まであと少しのところだ」と思っていましたが、目の前に広がっていたのは予想もしていないクレバス帯でした。

時間もかなり押していたため、そこでキャンプを設置し、クレバスの偵察に向かうことにします。クレバスを通過するにはロープを繋ぎ合い、雪が繋がっている箇所を縫うようにして進みますが、今にも崩れてしまいそうな箇所もあります。恐怖を抑えて慎重にロープを伸ばし、なんとか攻略することができました。

クレバスを通過するときはロープを繋ぎ合い、雪が繋がっている箇所を縫うようにして進む

いよいよ登頂に向けてアタック…しかし高度順化がうまくいかなかった

10月5日。山頂に向けてアタックします。この日で仕留める必要がありますが、やはり高所順応がうまくいっておらず、思うように体が動きません。積雪は膝下くらいですが、すぐ息が上がってしまうため、時間がとてもかかります。山頂へとつながる稜線に合流しますが、その先はだんだんと細くイヤらしくなっていきます。ロープの支点を作りながら、一人ずつ慎重に行くことにしました。

10月5日、山頂に向けてアタック。この日で仕留める必要があったが…

ロープが足りなかった…ファーストアタックはここで撤退

2ピッチくらいロープを伸ばすと岩峰に差しかかりました。尾高がトップで行きますが、先に行くには下10mほどのギャップを通過しなくてはいけないようです。通過にはロープを新たに設置する必要がありますが、設置に使えるロープは持っていませんでした。その時点で時間も12時過ぎだったため、ファーストアタックはそこで撤退の判断を下し、ロープなどの必要な装備を持って再度挑戦することにしました。

下山もかなり疲労していたため、BCに戻るまでも大変だったことを覚えています。今までの山の人生の中でも最も辛い数日間でした。(Episode 6に続く)


中沢将大の愛用品

「写ルンです」

軽くて、操作がシンプルなため、過酷な環境でもすぐにシャッターを切れます。今回の遠征では、途中で水没してしまいましたが、帰国後になんとか現像することができました。すぐには写真を確認できないですが、現像して写真を確認する時のワクワク感もたまらないです。

チャレンジを終えて…中沢将大

プンギ遠征を終えた今、新たに課せられた挑戦は、「就活」という大きな山を乗り越えること。どっぷり大学人生を山岳部に捧げてきた今、机と向き合ってじっとしていることが大変ですが、カトマンズで買ってきたお香を焚いて、紅茶を飲めば、なんとか頑張れそうです。恋しくてたまらないネパール。就活が終わり次第、戻りたいと思います。


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