【ツール・ド・フランスリバイバル】2011年、マイヨジョーヌ南半球へ

第98回ツール・ド・フランスはオーストラリアのカデル・エバンス(BMC)が南半球にある国の出身選手として初となる総合優勝を達成した。34歳だった。1分34秒遅れの総合2位はルクセンブルクのアンディ・シュレック(レパード・トレック)。2分30秒遅れの同3位は兄フランクで、兄弟がパリの表彰台に一緒に立つのは史上初。

第4ステージで勝利を確信したコンタドールがガッツポーズするが、写真判定でエバンス(右)が先着していた

エバンスは第4ステージで区間優勝すると、合計6区間ある山岳コースでも有力選手から致命的な遅れを取ることなく、最終日前日の個人タイムトライアルへ。得意とするこの種目で57秒遅れの総合3位から一気に首位に立った。

「自転車をやり始めてからここまで20年間。ツラいことも多かったが、たくさんの苦労が今日の栄冠をもたらしてくれた」とエバンス。

もともとはMTB選手でW杯シリーズ年間王者に2年連続で輝いた実績がある。自国開催のシドニー五輪後、欧州を活動拠点にしてロードレースに本格転向。2009年には世界チャンピオンになったが、アシストを含めた総合力が問われるツール・ド・フランスではチーム力に恵まれず何度も優勝を逃してきた。

開幕地バンデ県に本拠地を置くヨーロッパカーチームは、地元出身選手を多用したフランス純血チームに。新城幸也はそれに押し出される形でメンバー落ちしたが、「ユキヤが選ばれないのは理解できない」という地元ファンの声が聞かれた。

干潮時にしか海面上に姿を現さないパサージュ・デュ・ゴワが開幕日のスタート地となった

ジロ・デ・イタリア制覇のコンタドールが読み違えたこと

この2011年大会の開幕では、スペインのアルベルト・コンタドール(サクソバンク)は3年連続4回目の総合優勝を目指す大本命だった。後日前年の総合優勝が薬物使用によって取り消されるが、コンタドールの実力はだれもが認めていた。ただしコンタドールにとっては、じつのところ番狂わせなツール・ド・フランス出場だった。

コンタドールは5月に開催されたジロ・デ・イタリアで圧勝していた。周囲はマルコ・パンターニ以来となる12年ぶりの二大大会制覇を期待した。しかし開幕地に登場したコンタドールの調整不足は明らかだった。科学的コンディショニングが導入される近年においては、その間隔が1カ月しかない23日間の過酷なレース2つをベストで臨むことは非常に難しいことなのだ。

コンタドール(3人目)は第1ステージの終盤に落車に巻き込まれ、いきなり1分20秒遅れた

コンタドールも当然、世界最高峰の自転車レースであるツール・ド・フランスを最重要視していた。それでもなぜジロ・デ・イタリアに出場したのか。それは前年のツール・ド・フランスで誤差の範囲ほどの微量ながら禁止薬物が検出されたことで、それを理由に主催者からシャットアウトされる可能性があったからだ。

ツール・ド・フランスの欠場を想定してジロ・デ・イタリアに参戦。その大会で地元イタリア勢を寄せ付けることなく圧勝。皮肉なことにその後、ツール・ド・フランスに参加ができることになるのだが、ジロ・デ・イタリアの疲労をコンタドールは取り切れていなかった。案の定、第1ステージの終盤に発生した落車で立ち往生し、初日で1分20秒もロス。失ったこのタイムは終盤になって大きく影響してくる。

絶好のスタートを切ったのはエバンスだ。2007、2008年と僅差で総合2位になっていたが、ここ2年は若手期待のアンディ・シュレックが台頭し、この34歳の選手は優勝候補の大本命とは見なされていなかった。しかし初日に3秒遅れの総合2位につけると、序盤戦にマイヨジョーヌを独占したトール・ヒュースホウトをわずか1秒差で追走。絶好の位置で勝負どころとなる山岳ステージを迎えた。

コンタドールの不調で優勝の最有力となったアンディは、兄のフランクとともに前半戦になりを潜めた。まるで調子が悪いのかとも思えるような、動きの見られない走りだった。それでもライバルとなるコンタドールがタイムを失い、うるさい存在であるアレクサンドル・ビノクロフが落車によってレースを去っていく。

中央山塊の第9ステージでトマ・ボクレールがマイヨジョーヌを獲得しても、シュレック兄弟が山岳ステージで勝負に転じる計画は変わらなかった。

2011ツール・ド・フランスでマーク・カベンディッシュは区間5勝、マイヨベールも獲得した

フランスのボクレールが意地を見せた

ところがここで頑張ったのがボクレールだ。1985年のベルナール・イノー以来、最終的なマイヨジョーヌから遠ざかっているフランス勢にあって、ボクレールは見事なまでの執着心を見せつけた。

「山岳でマイヨジョーヌを手放すことになるよ」とは言い逃れ。あるいはチームメートのプレッシャーを減じるためのハッタリだった。

ピレネーの3日間をボクレールはマイヨジョーヌを守り抜いた。さらにアルプスでも2日間崩れなかった。ファンは「パリまでマイヨジョーヌを守るのでは」という期待もわずかにふくらんだ。しかしそこはボクレール。

最後の山岳となるラルプデュエズ。一発逆転をねらったコンタドールに対して、アンディが反撃を許さずにゴール。さすがにボクレールも脱落して、ようやくここでアンディがマイヨジョーヌを獲得する。

広告キャラバン隊は夜遅くまで騒いでいるが、朝早くから販促物の封入作業も

しかし2011年の大会は、それでドラマがフィナーレを迎えるという筋書きではなかったようだ。

最終日前日の個人タイムトライアルへ。合計6区間ある山岳コースで有力選手から致命的な遅れを取ることがなかったエバンスが、得意とするこの種目で57秒遅れの総合3位から一気に首位に立った。およそ10年間、ツール・ド・フランスでは苦悩の日々を費やしてばかりだったが、まさにマイヨジョーヌへの執着心が爆発した。

2011年の大会はたった1枚しかない黄色いジャージへのこだわりが強かった選手に最終的に落ち着いたという感がしてならない。


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【ツール・ド・フランスリバイバル】2010年、コンタドールの栄冠はく奪

前年に2度目の優勝を果たしたアスタナのアルベルト・コンタドール(スペイン)がサクソバンクのアンディ・シュレック(ルクセンブルク)をわずかに制してパリでマイヨジョーヌを着用した。ところが後日、微量の禁止薬物がコンタドールが受けたドーピング検査で検出され、2011年になってタイトルはく奪。総合2位シュレックが繰り上がり優勝者となった。

アンディ・シュレック。マイヨジョーヌとマイヨブランの統合ジャージは実際にあるわけではなく、撮影のために用意されたもの
頼もしいアシスト役として存在感あふれる走りを見せた新城幸也

前年に初出場にして日本選手初の完走を果たした新城幸也(ブイグテレコム)はこの年も連続出場。23日間を戦い抜き、2年連続となる完走を果たした。

呼吸器疾患と精神状態に苦しんでいたコンタドール

前年はチーム内に難敵ランス・アームストロングを抱えながら、チームぐるみの妨害に耐えて総合優勝したコンタドール。2010年は2年連続3度目の優勝に挑むために、オランダのロッテルダムで開幕した大会に乗り込んできた。

この年の7月はウィンブルドンでナダルが優勝し、サッカーW杯でスペインが快進撃していた。4年に一度の遭遇としてサッカー大会と日程が重なった第97回ツール・ド・フランス。9日目にコンタドールは自国スペインの優勝を喜ぶことになり、「7月はスペインスポーツの強さを見せつけたい」と総合優勝への意欲を見せた。そして幸先のいいスタートを切る。序盤のアルプスを終えて首位アンディ・シュレックを41秒差でピッタリとマークした。

ところがコンタドールは、ことあるごとにサッカーなど別の話題を持ち出してみて、自らの調子に関する質問をはぐらかした。じつはコンタドールは、2010年大会にこれまでのようなベストコンディションで臨んでいなかった。欧州の異常気象によって呼吸器系の持病に苦しんでいたとも伝えられる。

アスタナとサクソバンクのつばぜり合いは最後まで続いた

精神面でも追い込まれていたとして当然だ。2009年、アスタナチームはランス・アームストロング派に傾倒し、コンタドールへの忠誠を拒否した。チーム内にいたこの最大のライバルが、幸いなことに2010シーズンはアームストロングと結託していたブリュイネール監督とともに立ち去るのだが、それと入れ替わってカザフスタンの英雄的存在アレクサンドル・ビノクロフが復帰してきた。

大会側も2006年から4連覇を続けるスペイン勢にハンデを押しつけてきた。スペイン勢が活躍の場としない北フランスの石畳みをコースに組み込んだのだ。もちろんコンタドールも「北の地獄」と呼ばれる石畳の悪路は未体験。案の定、コンタドールはここでアンディ・シュレックから1分13秒というタイムを失った。この第2ステージが終わってコンタドールはシュレックに対して31秒遅れだった。

マイヨジョーヌのアルベルト・コンタドールが山岳で揺るぎない走りを見せた

ライバルはシュレック。親しい仲もついに決裂?

アルプス初日の第8ステージでも、コンタドールは区間優勝のシュレックから10秒遅れでゴール。翌ステージでマイヨジョーヌはシュレックのものになった。この時点で総合優勝争いはシュレックと、それを41秒差で追うコンタドールの2人に絞り込まれた。

中央山塊のマンドにゴールする第12ステージで、コンタドールはシュレックを引き離すことに成功したが、区間勝利に固執したばかりにゴール時点ではわずか10秒しか稼ぎ出すことができず。タイム差は再び31秒になった。

そして運命の第15ステージ。ピレネーのポルトデバレスを上る山岳区間がキーポイントとなった。残り21.5km地点を頂上とするカテゴリー超級の峠で、コンタドールはアシスト役のビノクロフとともにシュレックの様子をうかがった。長い峠道で山岳スペシャリストのシュレックに差をつけることは容易ではなかった。

ツールマレー峠

頂上まであと3kmという地点でマイヨジョーヌを着るシュレックのほうが先手を打った。急加速によって一気に差を開く。あわててビノクロフがこれを追う。コンタドールは反応がわずかに遅れた。ところが次の瞬間、シュレックのペースが明らかにダウンした。

「ここだ」とばかりにコンタドールがカウンターを仕掛けた。この時点で総合3位のサムエル・サンチェス、同4位のデニス・メンショフも追従。

シュレックはフロントチェーンリングのチェーンを脱落させていた。あわててしまったのはシュレックだ。一度自分でかけ直すが失敗。再び地面に足をつけて震える手でチェーンをかけ直した。わずか十数秒のことだったが、上りでコンタドールらに追いつくことができず、ゴールまでの下りでも追いつけなかった。シュレックはこの日39秒失った。総合成績は8秒差で2位になっていた。

ゴール後の記者会見に出席したコンタドールは「ここでタイムを稼げたのはうれしい限りだ」と語り始めたが、記者団が「シュレックのメカトラブルは見ていたのか」という質問に、笑顔が消えた。

「見ていない。シュレックがペースダウンしたのは知っているが…」

ホテルに到着して国際映像で流されたそのシーンを見て、コンタドールはさらに青ざめたはずだ。すぐに緊急のビデオ出演。「シュレックのトラブルに乗じるつもりはなかった」と謝罪した。

2010ツール・ド・フランス

マイヨジョーヌが不運で遅れたときは待たないといけないのか?

マイヨジョーヌがトラブルに見舞われ、それで総合優勝の行方が大きく変わっていくという例は過去にもある。今回はまさに大詰めの、それも最大の勝負どころでトラブルが起きた。それはシュレックにとって不運なことだったが、コンタドールのアタックまで否定するものではないというのが、プレスセンターの雰囲気だった。

じつは第2ステージでシュレック兄弟が落車で遅れたとき、メイン集団が彼らの復帰を待ったというのも異例だった。もしこのとき、コンタドールを含めた有力選手がペースダウンに同意しなければ、アンディ・シュレックは大会3日目にして総合優勝争いから脱落していたとしても不思議ではない。

ゴール後は悪態をついたシュレックだったが、コンタドールの対応に翌日には冷静さを取り戻したのはさすがだった。

2010ツール・ド・フランス

コンタドールはこれまで、アームストロングの急先鋒として期待され、人気が高かった。そのアームストロングが失速したことで手のひらを返すかのようにアンチコンタドール化したファンは無情だ。

「精神的には昨年よりもツラい大会だった」とコンタドールが語った理由は、表彰式で耳に入ったブーイングだろう。

ランス・アームストロングが最後のツールマレー峠でアタックし、意地を見せた

第97回ツール・ド・フランス。新城に幸運の女神はほほえんだか?

「逃げます!」と宣言するのは簡単です。でも実際にはとんでもなく難しいことなんです。簡単にできることだったら、さっさとやっています。

国際映像に向かって手を振ったり、沿道の日の丸にこやかにほほえんだりしながらも、新城幸也は苦悩していた。だってツール・ド・フランスには21の白星しかないからだ。そのなかには個人タイムトライアルがあり、さらに急峻な山岳ステージを差し引くと、新城のようなアタッカーが勝負できるステージは片手の指の数ほどしかない。

数少ないチャンスをいかにものにするか。ずば抜けた実力とともに、そのときの運も味方につけなければならない。

2009年のツール・ド・フランスに初出場した鉄馬(カミンマ)こと新城は、マスドスタートの最初のレース、つまり大会2日目の第2ステージでいきなり区間5位に食い込んだ。世界中が驚いただろうが、取材歴が20年以上になるボク自身もビックリした。

当然のように日本のファンの期待は一気にふくらんだ。「出場するからには勝ちにいかなきゃ意味がない」と意欲を語る新城の表情に、心の中ではプレッシャーにもなったはずだ。

新城幸也のチームジャージにはエリとソデに元日本チャンピオンの誇りを配置

昨年の経験があるので、23日間のペース配分がわかっているのが強み。

複線は5月のジロ・デ・イタリア。距離162kmで行われた第5ステージで新城は15km地点で単独アタック。これに他の3選手が追従してゴールまで逃げまくった。途中で1選手が脱落すると、数にものを言わせた後続の大集団が残り1kmで3人を飲み込もうとしたが、ここから新城が起死回生のスパート。大集団からまんまと逃げ切った。

空気抵抗の大きい先頭を突っ走ってゴールを目指した新城は、最後にパワーを集中させることができずにクイックステップのジェローム・ピノーに優勝をさらわれ、3位となる。

「悔しい。こんなチャンスは二度とないかも知れないのに。日本のみなさん、ごめんなさい!」

この年のツール・ド・フランス開幕時、「ピノーに会ったら両手を差し出して、なんかプレゼントはないの?って言うんだ」と新城は冗談っぽく語っていたが、そのピノーには貴重なアドバイスをもらった。

「ああいう無謀なアタックを20回やって、1回勝てたらもうけもの。ツール・ド・フランスとはそういうものさ」

新城幸也が2年連続でシャンゼリゼに帰ってきた

目立つことだけでなく、キッチリと仕事をこなす

チームはスプリンターとしての新城の実力を高く評価している。それでも本人は全面的にスプリンターであることを否定する。「スプリンターは最後の勝負まで静かにしていなければいけない。おとなしくしているのは退屈で好きじゃない。アタックしたほうが楽しいじゃないですか」

ツール・ド・フランス2回目の休息日にて。日本人記者が集まった記者会見もリラックスして臨めるようになった。これも2年目の実績である。

2年連続出場を決めた新城は、2009年以上に総合力を高めていた。第11ステージでは区間6位。それ以外の平たんステージでもトップが見えるところで勝負に加わった。すべてスプリンターとしての実績だ。

しかしアタッカーとしての新城はヨーロッパの列強に封じ込められたと言っていい。

「ツール・ド・フランスのようなメジャーレースが、スタート直後の1回のアタックで決まってしまうのは絶対におかしい!」

新城がいつもとは違う口調で吐き捨てたことがあった。

つまり自転車レースというのは駆け引きや心理作戦があり、総合成績と区間勝利が同時進行で展開していく複雑さがあって興味深いのだと。それが序盤の単調なアタックで決まってしまうのは我慢ならないということだ。

その一方で新城が前に出ようとしたときには封じ込められる。「日本人に勝手なことをされては困る」という意志があるかのようだ。

それを打ち破るのは容易ではない。次は果たせなかった一発勝負を。そして5年後には総合優勝を争うオールラウンダーに。夢が夢でなくなる時代は確実に近づいている。


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【ツール・ド・フランスリバイバル】2009年は別府史之と新城幸也が初完走

2008年は所属するアスタナチームが過去に巻き起こした複数の薬物騒動を理由に、ツール・ド・フランス主催者からシャットアウトされたスペインのアルベルト・コンタドール。2009年はマイヨジョーヌ奪還を目指してツール・ド・フランスに乗り込むが、米国のランス・アームストロングが現役復帰してチームメートに。コンタドールはチーム内に最大の敵をかかえながら戦うことになった。

開幕地モナコで。左から別府史之、佐藤琢磨、新城幸也

ピレネー山脈の山岳ステージに突入した第7ステージでコンタドールは首位から6秒差に浮上。アルプスの第15ステージでコンタドールがアームストロングを含むライバルに差をつけてゴール。マイヨジョーヌを獲得した。

「重要なことはライバルに差をつけたことだ。アームストロングに、ってことじゃないけど」

コンタドールはさらに最後の個人タイムトライアルも圧勝。最終日前日のモンバントゥーでもアンディ・シュレックを逃がすことなく同じタイムでゴールラインを踏み、2年ぶり2度目の総合優勝を決めた。

ツール・ド・フランス2009

この年は日本の別府史之(スキル・シマノ)と新城幸也(Bboxブイグテレコム)が、1996年の今中大介以来13年ぶりとなる出場を果たした。第2ステージで新城が日本勢最高位となる区間5位(現在でも最高位)。シャンゼリゼにゴールする最終日は別府が敢闘賞を日本選手として初めて獲得した。

最終的に2人は日本勢として初の完走を果たす。未知の領域でバトルし、世界最高峰の大舞台で互角に戦ったことは、日本自転車界に大きな史実として永遠に刻み込まれた。

2年連続の総合優勝を達成したマイヨジョーヌのコンタドール

サムライジャポン、フランスで存在感を見せつける

第96回ツール・ド・フランスはコンタドールの周到な勝利、4年ぶりに復帰したアームストロングの可能性と限界、将来性をさらに高めたアンディ・シュレックの存在などに関心が寄せられたが、存在感あふれる別府史之と新城幸也も現地をわかせてくれた。

別府と新城という日本勢2選手が出場した大会。日本では生中継のテレビ放送やスポーツバーなどで大変な盛り上がりを見せていたというが、現地でも反響は大きかった。開幕時から各国のメディアが2選手を積極的に紹介。そしてそれを追いかける日本の報道陣にも関心が寄せられた。

モンバントゥーを走るマイヨジョーヌのコンタドール

当初は物珍しさがあっての紹介だったが、日を追うごとに2人の実力を評価する論評が目立ち始めた。当初の「日本の選手」という記述やコメントから「ベップ」「アラシロ」という固有名詞に変化していったのは、2人がツールという最高峰の舞台で認められたということ。

米国勢初のツール出場は1981年のジョナサン・ボイヤーで、1986年にはグレッグ・レモンが総合優勝を達成。あっという間に総合優勝10回を達成したことをヨーロッパの報道陣は記憶の片隅にとどめているだろう。

そういった意味もあり、ディフェンディングチャンピオンのカルロス・サストレよりも日本勢のほうが取材陣に追いかけられるという状況が訪れる。Bboxブイグテレコムに関しては、区間勝利したトマ・ボクレールやピエリック・フェドリゴよりも新城のほうが関心を寄せられたが、新城自身が「チームの雰囲気」を大切にするために苦心したようで、ぎこちない関係にはならなかったのは幸いだ。

沿道で2選手を応援していたのは日本からやってきたファンだけではない。現地駐在の日本人が得意げに日の丸を掲げていたのをはじめ、地元フランスの人たちの中で日本文化に興味を持つ人たちの姿がきわだった。

モナコ在住の元F1レーサー、佐藤琢磨が別府史之にエール

特にコミックやアニメに影響を受けた中高生が2人を憧れのまなざしで見ていたことが印象的。どこで調べたのか、多少の間違いがある日本語を段ボールや横断幕に書き込み、2選手に声をかけることもなく遠巻きに、意外とシャイな素顔を見せながら応援。でもその視線はとても熱いものがあった。

フランスのかわいい女子中学生たちが、フェイユやカザーじゃなくて、別府と新城を応援しているのよ。どういう現象なのか、信じられなかった。

シャンゼリゼにゴールしたときに新城が、日本自転車界にとっては「月に踏み出した一歩です」とコメントしたが、2人がフランスに残した足跡はそれ以上に大きいかもしれない。

開幕地モナコで決意を語る新城幸也

日本人で完走を果たしたのは2選手だけではない

開幕地のモナコで、リクイガスの中野喜文マッサーがこんなことを言っていた。

「ツール・ド・フランスの現場で頑張ってきた日本勢は、メカニックがいて、報道陣がいて、(もちろんマッサーがいて)あとは選手だけだった。これで全部そろいましたね。初日のタイムトライアルを見ていたら、涙が出てしまった」

中野さん自身は、所属選手のリタイア数が多ければレース途中でもイタリアに帰されると語っていたが、ニーバリらの若手の大活躍もあってシャンゼリゼまで完走。「別府も新城も期待以上の活躍だった。でもこれからが重要。これに続く選手が台頭してこなくてはツール・ド・フランスで勝つことはできない」とパリで語っていた。

完走した日本勢といえばもう1人。スキル・シマノのスタッフとして全日程で走り回った今西尚志だ。自身もシマノレーシングで活躍していた選手だったので、「ツール・ド・フランスで走る姿を夢描いたのでは」と聞いてみた。

「いや、想像すらできないほど遠く離れた世界でしたね。だからそれを実現した別府も新城も、プロ選手として本当に尊敬できる」

チーム内での今西の役どころは、簡単にいうと雑用係だった。別府に群がる日本人取材陣の要望を処理したり、要人を空港に送迎したり、補給食渡しや選手の世話もこなした。それがツールの現場を知る一番いい役割だからだ。

別府史之が最終日のシャンゼリゼでアタック!

格下クラスのスキル・シマノがトップチームと互角に渡り合ったのも驚異的だ。たとえばツール・ド・フランスで暴れ回ってきたゲロルシュタイナーだって、初出場の時は選手もスタッフもツールの特殊な動きが理解できず、トンチンカンな行動で失笑を買っていた。だから「別府も苦労するのでは」と思っていたのだが、スキル・シマノはチームスタッフが完璧にツールの動きをこなしていたのが印象的だ。これなら選手はレースに集中できる。

「彼らが今後、大きな舞台で立派なリザルトを残しても、今回のように日本選手だからという特別な報道のされ方はしないでしょう。彼らは日本人選手が世界の舞台で戦えることを証明し、日本人選手という枠を脱して世界水準の立場に立ったんですから」と今西。

日本人プロとして初出場した今中大介が現地に顔を出したのが第15ステージ。スタート地点に2選手を訪ねて激励するとともに、「ボクは14ステージでリタイアだっただけにスゴいと思う。しかも堂々トレースで渡り合っている」とリスペクトした。

今中のこうした言葉に応えた別府。

「第14ステージでは今中さんがリタイアしたことが頭によぎりました。だからゴールしたときは特別の感慨がありました」

新城も「まだまだこれからです。日本人だからという特別な存在として扱われないように、きちんとした成績を残したい」と言葉を交わした。

シャンゼリゼにがい旋した新城幸也

日本の将来性を感じさせた初完走の快挙

13年ぶりに日本勢が出場を果たしたことをきっかけに、今中の偉業を改めて再認識する必要がある。今回の2選手のように優勝争いに絡みながら完走を果たしたわけではないが、1996年と現在を単純に比較するのは間違いだ。

1990年代後半は競技距離が長く、現在よりも過酷な状況下に置かれた選手たちは体力を消耗し続けた。例を挙げれば、1996年の走行時間は2009年よりも10時間も長い。しかも平均時速はそれほど変わっていないのだ。

とあるチームのメカニックとマッサーがこんなことを口にしていたという。

「近年はレース時間が短くなったので、作業に余裕が生まれた。選手たちもホテルに戻って回復にたっぷりと時間を使うことができる」

ゴール後の渋滞回避のために主催者が対策を完璧に乗じていること、各チームがシャワー装備の豪華バスを所有するのが常識になったという環境の変化も加わる。

積極果敢な走りを見せた別府史之が最終ステージで敢闘賞を獲得した

やはりツール・ド・フランス出場は、いつの時代にも金字塔として記憶しておかなければいけない。

そうはいっても別府と新城が未知の領域でバトルし、互角に戦ったことは、日本自転車界に大きな史実として永遠に刻み込まれるはずだ。


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【ツール・ド・フランスリバイバル】2008年はサストレが僚友からマイヨジョーヌを譲り受けた

前年に総合優勝のアルベルト・コンタドールまで23秒差に詰め寄ったシランス・ロットのカデル・エバンス(オーストラリア)が優勝の最有力とされた2008年。これに対してCSCチームは山岳派のカルロス・サストレ(スペイン)をエースに指名し、フランクとアンディのシュレック兄弟(ルクセンブルク)がこれをアシストするという布陣を公言した。

ラルプデュエズで独走優勝したサストレが僚友シュレックからマイヨジョーヌを譲り受ける ©ASO / POOL

第4ステージの個人タイムトライアルでエバンスは個人総合4位に浮上。序盤戦の勝負どころである第10ステージではフランクを総合成績でわずか1秒差ながら上回り、エバンスは初めてのマイヨジョーヌを獲得した。CSCのエースはこの時点でサストレから、1秒遅れの総合2位フランクになった。

アルプス初日の第15ステージでエバンスが窮地に陥った。弟のアンディらCSCのアシスト陣がハイペースで最後の上り坂でペースメークすると、エバンスの援護をする者は一人もいなくなる。

サストレがアタックしても、エバンスは見送らざるを得ないほど消耗していた。フランクはエバンスに追従しながら、その姿を冷静に把握していた。無線でビャルネ・リース監督に指示を受けたフランクが一気に1秒差の逆転を図った。フランクはエバンスよりも9秒早く先着し、総合成績を逆戦する。

ツール・ド・フランス2008

しかしエバンスとの差はわずか8秒。最終日前日にはエバンスが得意とする個人タイムトライアルが設定されているので、エバンスが有利なことは明かだった。

こうして最難関である第17ステージへ。ゴールのラルプデュエズにさしかかるとCSCチームは思いもよらぬ作戦に出た。49秒遅れの総合4位サストレがアタックしたのだ。

「エバンスとのタイム差は問題で、タイムトライアルで逆転される可能性が高い。サストレのアタックはマイヨジョーヌを獲得するために唯一残された手段だった」とCSCのリース監督。

このラルプデュエズで独走勝利したサストレが、49秒遅れの総合4位から一気に首位へ。チームメートのフランクからマイヨジョーヌを引き継いだ。最終日前日のタイムトライアルでもサストレは、エバンスとのタイム差をきっちり守って初優勝を決めた。エバンスは2年連続で総合2位に甘んじた。

マーク・カベンディッシュが第5ステージでツール・ド・フランス区間初勝利 ©ASO / POOL

初勝利の「おしゃぶり」ポーズがトレードマーク

2003年の第13ステージは大会後半の勝負どころ、ピレネー山脈での第1ラウンドとして、トゥールーズからスキーリゾートであるアクス3ドメインまでの197.5kmで行われた。この年はランス・アームストロングが7連覇(のちに薬物違反で記録抹消)した中で最大の苦戦を強いられたもので、猛暑の中で白熱した戦いが繰り広げられていた。最大のライバルであるヤン・ウルリッヒが激しい抵抗を見せていたのだ。

この第13ステージで、二強のつばぜり合いを尻目に独走を決めたのが、当時28歳だったスペインのカルロス・サストレだ。サストレはCSCチームの中で、タイラー・ハミルトンのアシスト役をこなしていて、この時点では総合16位。有力選手にとっては多少の逃げなら容認できる存在だった。

初優勝の舞台となったアクス3ドメインは、総合2位のウルリッヒがアタックし、7年間で唯一アームストロングが遅れた上り坂だった。それほどの急峻な峠を飛ぶようなペースで駆け上った小柄な山岳スペシャリストが一躍脚光を浴びた。

区間2位でゴールしてくるウルリッヒに1分01秒の差をつけてゴール手前に単独で現れたサストレは、背中のポケットから乳児用の「おしゃぶり」を取り出し、それを口にくわえるという奇妙なウィニングポーズを実にまじめな顔つきでやってのけた。

「最後の上り坂にはボクの親戚や友人がたくさん来ていた。彼らの声援がボクの支えになった。おしゃぶりをくわえたのは、この勝利を息子のジェダイに捧げたかったから」

以来このおしゃぶりは、サストレファンクラブの象徴としてTシャツの図柄にもなっているほどだ。

カルロス・サストレがラルプデュエズでアタック

コンタドールとは異なる、落ち着いた都会派サストレ

カルロス・サストレはスペインの首都マドリッドで生まれた。ツール・ド・フランスの歴史に出てくるフランス選手の中で、「パリっ子」はローラン・フィニョンくらいしか思い浮かばないように、都会派育ちという珍しいスペイン人レーサーだ。

それだけにどことなく落ち着いた性格で、社会的な言動にもそつがなく、振る舞いも大人びたものだ。

「アルベルト・コンタドールとは違うよね」とスペイン人記者が含みを持たせた言葉をよく口にした。

ボクは最後までその真意をつかみかねていたのだが、サストレが優勝することになった段階で、スペイン人記者が歓迎する勝利であったことが周囲の雰囲気から推察できたので、少なくともサストレ自身が愛される人物であることだけは間違いないと感じた。

スペイン・バスク地方出身のミゲール・インデュラインがだれからも好かれる存在だったことで、その恩恵を受けてアシスト陣の献身的なサポートを受けて5連覇を達成したように、サストレには目立つことこそないが、エースたる資質は当然のように備えているのである。

ツールマレー峠でフロントフォークを折ったウジェーヌ・クリストフが自らの手で溶接した鍛冶屋は民家として現存する

1997年にオンセチームでプロデビューし、このスペインチームで5年間走った。2000年にはブエルタ・ア・エスパーニャで山岳王になるとともに、総合8位。

2001年にはツール・ド・フランス初出場を果たし、エースのホセバ・ベロキを総合3位の表彰台に送り込むと同時に、自らも総合20位でゴール。それ以降も2002年10位、2003年9位、2004年8位、2005年21位、2006年4位(ランディスの失格で記録は3位に修正)、2007年4位と毎年完走し、まずまずの成績を修めてきた。

2002年にはデンマークのCSCに移籍した。スペインチームを離れ、リース監督率いるこのチームに移籍したことが、単なる山岳派からメジャー優勝をねらえるオールラウンダーへの転身を助長したといっても過言ではないだろう。

CSCチームではすぐに、ジロ・デ・イタリアやツール・ド・フランスの山岳でのアシスト役としてなくてはならない存在になった。2003年にツール・ド・フランスのピレネーで最初の区間優勝。記録の上では2006年の第16ステージで2勝目を挙げているが、これは例のフロイド・ランディスがドーピングで失格となったことによる繰り上がり優勝だ。

2006年のジロ・デ・イタリアではイバン・バッソの総合優勝に大きく貢献。そして翌年にバッソがCSCから離脱するといよいよエースとしての座が回ってきた。すでに31歳で、遅咲きのエースだった。

「今年のコースはまさに自分好みのもので、ボク自身の調子もこれまで以上にいい」

三大大会のすべてでステージ勝利を飾り、常にコンスタントな成績を修めてきたサストレ。しかし総合優勝の経験はない。前年の覇者アルベルト・コンタドールが招待されないという盟主不在のレースでも、サストレを優勝候補の最有力と見なす取材陣は少なかった。

個人的な実力からすれば前年の2位エバンス、そして世界ランキングで1位になるような実績を持つバルベルデやクネゴを押す声が多かった。しかもCSCチームで急成長のシュレック兄弟を「隠れエース」とする意見もあったはずだ。

第15ステージのプラトーネボソでエバンスを逆転して初めてマイヨジョーヌを着用するのがフランク・シュレックだが、このとき絶妙のアシスト役をこなしたのがサストレだった。この第15ステージでCSCのシュレックとサストレは、ラボバンクのメンショフとともに共同戦線を張った。お互いに揺さぶりをかけてマイヨジョーヌのエバンスだけをふるい落とそうという作戦だった。

CSCはチーム一丸となってマイヨジョーヌを獲得しようという意志が非常に強かった。

その一方で、エバンスのアシスト態勢はないものに等しかった。南半球出身選手が初めてマイヨジョーヌを着用するかどうかという事態に、保守的なヨーロッパ社会が拒否反応を起こしたのかもしれない。山岳でのエバンスのアシストは皆無だった。エバンスは常に単身でCSCの波状攻撃に耐えた。

CSCが組織力でマイヨジョーヌを奪い取るのは当然の結果だった。そして奪い取ったのはサストレではなく、若きフランク・シュレックだった。

「マイヨジョーヌを着ることがこんなに気持ちがいいとは。ピレネーのオタカムではたった1秒足りなかっただけで、ホテルにマイヨジョーヌを持ち帰れなかった。それは残念というよりもチームに申し訳ないという気持ちのほうが強かった」と語るシュレックは、さらにこう付け加えた。

「プラトーネボソで手に入れたこの1枚のジャージはチーム全員のものさ。今日一番強かった選手は弟のアンディに違いない。彼のペダリングは力がみなぎるもので、振り切られないようにみんなレッドゾーンに追い込まれた。そのおかげでボクたちは最後にアタックできた。エバンスは必死に着いてきたので、ラスト1kmで再びアタックした」

ラルプデュエズでライバルたちの激しいマークに遭ったマイヨジョーヌのフランク・シュレック

フランクからマイヨジョーヌがサストレの元へ

このCSCの組織力を巧みに操作するのが知将リースだ。

「サストレも素晴らし走りで揺さぶりをかけてくれた。彼自身の総合成績も上昇したことで、ボクたちは2つのカードを持ってゲームに挑むことができる」

しかしチームの組織力をもってしてもエバンスはしぶとく食い下がった。常にタイムロスを最小限に食い止め、アルプス2日目の第16ステージが終わっても8秒遅れの総合3位の位置にいた。前年の大会で23秒届かなかった悔しさがあり、エバンスも必死だった。

第16ステージでアシスト役のサストレと弟のアンディ・シュレックの強力な援護によってマイヨジョーヌを守ったものの、チームには焦燥感があった。

弟は新人賞ジャージを着用することになって、「これで兄弟そろってリーダージャージを着用できた。ボクたちは顔も身長も似ているので、陽動作戦も通じるかもしれないね」とフランクは笑顔を装ったが、心中は穏やかではなかったはずだ。

そして最大の勝負どころである第17ステージ。決戦の舞台はラルプデュエズ。2年前にフランク・シュレックがクネゴをふるい落として独走優勝した縁起のいいところだ。

沿道には小国ルクセンブルクの国旗が打ち振られ、50年ぶりの総合優勝が国家にもたらされる瞬間を見ようというファンが集まった。そんなルクセンブルクファンがこおりついた。

「サストレがアタック!」

「エバンスが追うが、その差は開く一方だ。シュレック兄弟は抑え役としてエバンスをマーク!」

サストレはこの時点で49秒遅れの総合4位にいた。急峻なラルプデュエズで決定的なアタックを決めれば、僅差で並ぶ上位3人は逆転が可能。そしてもしエバンスが追撃して追いついてきても、体力を温存していたシュレックがカウンターアタックを仕掛ける。CSCの作戦は「王手飛車取り」の戦略だ。

この戦略にはシュレックも同意している。

「オタカムでも最後の上りでアタックを連発させるのがCSCの作戦だった。あれはうまくいった。だからこの日もやろうとボクは発言した。完璧だったはずだ」

このままのタイム差で山岳ステージを終われば、最終日前日の個人タイムトライアルで確実なまでにエバンスに逆転される。

「マイヨジョーヌを確実なものにするためには、サストレをしてアタックさせるしかない。しかも逃げ切れるタイム差を稼ぐためにはラルプデュエズのふもとからアタックをかけることだ」

知将リースはこう計算していた。

こうしてラルプデュエズでアタックしたサストレは後続に2分03秒差をつける独走でステージ優勝するとともに、マイヨジョーヌを獲得した。

「ツール・ド・フランスに出場するには多くの犠牲や大変なことが待ち受けている。でもマイヨジョーヌを獲得した今となっては、すべてが素晴らしい記憶に置き換えられていく」

しかし2分15秒遅れの区間7位でゴールしたエバンスを決定的にふるい落とすことはできなかった。この差はじつに微妙だった。総合成績で4位に落ちたエバンスは1分34秒遅れ。最終日前日の個人タイムトライアルで再逆転も可能な数字だった。

23日間の大会は最終日前日となる7月26日、セリリ〜サンタマンモンロン間の53kmで個人タイムトライアルが開催された。エバンスの記録が驚くほど伸びなかったのに対し、サストレは区間12位の記録でマイヨジョーヌを守った。

「タイムトライアルでの勝因は3つ。精神面、チーム力、そしてフィジカル面だ」

第19ステージはシルバン・シャバネル(コフィディス)がジェレミー・ロワ(フランセーズデジュ)を制したc

上りだけでなくタイムトライアルでも実力を発揮

サストレがスペインチームを離れてリース監督に身を託したことで、単なる山岳スペシャリストではない実力を兼ね備えたことは重要だ。タイムトライアルのスペシャリストがズラリとそろう同チームにあって、サストレはマサチューセッツ工科大学の風洞実験室で効果的なフォルムを修得し、個人タイムトライアルのポテンシャルを急激に引き上げてきたのだ。

さらに同種目の世界チャンピオンであるチームメートのカンチェラーラが、タイムトライアルのコース情報をすべて報告。マイヨジョーヌに身を包んで最終走者としてスタートしたサストレは、情報戦でも勝利していたのである。

パリ・シャンゼリゼにゴールする最終日、ほとんどタイム差なしの大集団でゴールになだれ込み、サストレが初の総合優勝を達成した。スペイン勢は3年連続7人目、11回目の制覇。そして欧州サッカー、テニスのウィンブルドンと4週連続でスペイン勢がメジャー制覇するという快挙だった。

スペインの取材陣は、派手さはないが人格者であるサストレの勝利に納得の表情を浮かべた。33歳3カ月と5日での初優勝は歴代6番目に遅い記録でもある。

最終日となるパリ・シャンゼリゼの表彰式にはおしゃぶりをくわえて初勝利を飾ったときに生まれた息子のジェダイと、長女のクラウディアも登壇した。

「ツール・ド・フランス総合優勝はボクが描ける最大の夢だった。チーム一丸となってそれを成し遂げようとそれだけに集中した。チームのだれ一人として欠けたら夢はかなわなかったはずだ。ボクへのアシストぶりを考えると、モチベーションは最高に高まった。この勝利で伝統あるスポーツの歴史の1ページに名前を刻むことができた」

スペイン勢として3年連続のマイヨジョーヌ。

「そして最後にこの勝利を義理の兄であるホセマリア・ヒメネスに捧げたい」

ヒメネスはサストレの姉と結婚した元プロ選手。「インデュラインの後継者」と呼ばれた逸材ながら、重度のうつ病で選手生活の停止を余儀なくされ、若くして天界に散った肉親だった。家族、それと同様にチームの和を大事にするサストレが唯一顔を曇らせた瞬間だった。


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【ツール・ド・フランスリバイバル】2007年はマイヨジョーヌ解雇! コンタドール初V

2007年の第94回ツール・ド・フランスは米国のディスカバリーチャンネルに所属していたアルベルト・コンタドール(スペイン)が初優勝した。アスタナのアレクサンドル・ビノクロフ(カザフスタン)、ラボバンクのミカエル・ラスムッセン(デンマーク)がレースを去るなかで、スペインの若き闘牛士(マタドール)がファンの心を魅了した。

マイヨジョーヌのラスムッセンをマークするコンタドール。エバンスはキツそうだ
ツール・ド・フランス2007

英国開幕の大会はビノクロフが優勝候補だった

英国ロンドンで開幕したツール・ド・フランスはタイムトライアルの世界チャンピオンであるファビアン・カンチェラーラ(スイス、CSC)がマイヨジョーヌを着用して動き始めた。アルカンシエルのワンピースジャージを身にまとったカンチェラーラは平均時速53.660km という猛スピードでロンドンの市街地を駆け抜けた。2位は13秒遅れでアスタナのアンドレアス・クレーデン(ドイツ)。同チームのエースであるビノクロフも30秒遅れの7位でゴールし、初優勝に向けて絶好のスタートを切った。

一方のラスムッセンは1分16秒遅れの区間166位。この時点ではエースナンバーをつけたメンショフのアシスト役をこなしながら、3年連続となる山岳ジャージに照準を合わせていたはずだった。大会前にチームが表明したこの大会のターゲットは、スプリンターのオスカル・フレイレ(スペイン)えによる複数のステージ優勝、ラスムッセンの山岳賞とトーマス・デッケル(オランダ)の新人賞獲得、そしてデニス・メンショフ(ロシア)が総合成績で上位に食い込むことだった。

ロンドン名物のダブルデッカーもツール・ド・フランスを歓迎

プロローグと第1ステージを英国で走ったツール・ド・フランスは、移動日なしでヨーロッパ大陸へ。第2ステージから6ステージまでは平坦コースでの戦いが続き、プレディクトール・ロットのロビー・マキュウェン(オーストラリア)やクイックステップのトム・ボーネン(ベルギー)らの有力スプリンターが連日のゴールをにぎわせた。ところがここで思わぬアクシデントが発生した。

優勝候補の筆頭だったビノクロフが、第5ステージの終盤で不意の落車で大けがを負ったのである。

平坦ステージの終盤はスプリント勝負に向けて高速化し、落車の危険性がつきまとう。それを回避するためには集団の前方に位置するのが鉄則で、歴代の総合優勝者はつねに序盤戦でも上位でゴールしている。

ツール・ド・フランスの前座として一般サイクリストがロンドンのど真ん中に集合

そしてビノクロフもそういった走りができる総合力を備えていたはずだが、チェーントラブルで思わぬ落車の憂き目にあったのだ。この大会の優勝候補の筆頭は両ヒザを裂傷するという重傷に顔をしかめた。すぐにクレーデンとアンドレイ・カシェチキン(カザフスタン)を除くチームメートが駆け寄り、隊列を組んでメイン集団への復帰を試みた。

ところがこのときメイン集団は、逃げていた先頭グループを吸収するためにハイペースでゴールに突き進んでいた。ビノクロフにとっては運がなかった。アスタナのアシストたちは力尽きて脱落。しかたなくビノクロフが単独で追ったが、高速化した集団には追いつくことはできず、1分20秒のタイムロスを背負う。前日まで50秒遅れの総合12位といい位置につけていたビノクロフだが、この日終わって2分10秒遅れの総合81位に陥落した。

アルプスで抜きん出てきたのは想定外のラスムッセン

そしてツール・ド・フランスは大会8日目、第7ステージにしてアルプスに突入した。例年なら序盤戦にはチームタイムトライアルか長めの個人タイムトライアルが組み込まれるが、2007年は通常のステージレースを続け、早い機会にアルプスを迎えたのだ。

この日はTモバイルのリーナス・ゲルデマン(ドイツ)を含む15人の第1集団が形成され、メイン集団との差を最大8分20秒まで開いた。ラスト14.5km地点を頂点とするコロンビエール峠で単独になったゲルデマンはそのままゴールまでの下りを独走し、初のステージ優勝と同時にマイヨジョーヌと新人賞のマイヨブランを獲得した。

タワーブリッジの途中で選手団が止まり、正式スタートを切った

翌第8ステージは2007年のキーポイントとなった1日だ。ラスムッセンら6人がレース中盤のロズラン峠でアタック。最後から2つ目の山岳、オートビユではラスムッセンら3人に。さらに最後のティーニュの上りでラスムッセンが単独になった。そしてラスムッセンは2位に2分47秒差をつけてステージ優勝。それと同時にマイヨジョーヌと山岳ジャージも獲得した。

後方に取り残された有力選手たちはそれぞれの戦いを展開。ここで脱落したのがなんとビノクロフだった。クレーデンにアシストされたビノクロフは4分29秒も遅れてゴール。明白になったのは総合成績で上位につけるクレーデンがエースではなく、あくまでもビノクロフが絶対的な存在であり続けたことだった。ビノクロフはアルプスの3日目も遅れ、これでだれもが総合優勝から脱落したと感じた。

純白の新人賞ジャージを着て走るコンタドール

第13ステージは、この年初めての長距離タイムトライアルだ。結果的にドーピング違反で失格となるビノクロフが最速タイムを記録するが、ここで浮上したのがエバンスとコンタドール。それとは反対に陥落したのがサウニエルドゥバルのイバン・マヨ(スペイン)、ケスデパーニュのアレハンドロ・バルベルデ(スペイン)、CSCのカルロス・サストレ(スペイン)だ。

2005年のツール・ド・フランスでは最後の個人タイムトライアルで何度も落車して大崩れしたラスムッセンはまずまずの好タイムでゴール。エバンスに1分差に詰め寄られたものの、納得のいく結果を手中にした。この日終わってラスムッセンの強さにだれもががく然としたはずだ。気がついてみれば「チキン」と呼ばれる、細身で長身のスキンヘッドが総合優勝に一番近いところにいたからである。

ツール・ド・フランス2007。ピレネー山脈を上るグルッペット

前代未聞! マイヨジョーヌの出走をチームが阻止

そして勝負はピレネーへと移っていく。1日目の山岳にして首位をねらえる好位置につけていたエバンスが遅れた。ラスムッセンと最後まで渡り合ってゴール勝負を制したコンタドールに対して、エバンスは1分52秒遅れでゴール。疲労したその表情に挽回する気力は感じられなかった。この日終わってラスムッセンと、それを2分23秒差で追うコンタドールの一騎打ちの様相を呈してきた。

ピレネー第2戦は、最後の山岳で4回もアタックしたコンタドールに、ラスムッセンが食らいついた。コンタドールはゴールまでの平坦路でも振り切ろうとパワーを振り絞ったが、この年のラスムッセンは想像以上に強かった。2人は同タイムでゴールした。

そして2人の一騎打ちは休日開けの最後の山岳ステージへ。戦いの舞台はオービスク峠だ。それぞれのアシストに援護された2人が雌雄を決着させようとしていた。満を持してコンタドールがアタック。しかしラスムッセンは離れなかった。最後はライプハイマー、ラスムッセン、コンタドールの戦いとなり、残り1kmでラスムッセンが単独に。区間2勝目のガッツポーズを挙げたときに、コンタドール逆転の夢を描いたスペインファンから落胆の声が上がった。

しかし2007年はその夜に事態が一転した。

コンコルド広場に選手たちがやってきた

ラボバンクがラスムッセンに出場停止処分を科したのだ。処分の理由は規則違反と発表されたが、同選手に薬物違反の疑いがあるためにチームが動いたとしか考えられない。

チーム広報のパトリック・クレルクはこう説明している。

「この日のゴール後のポーでチームはラスムッセンから事情聴取した。ラスムッセンは6月にメキシコにいると報告しておきながら、実際にはイタリアに滞在していた。このウソはチームの規律を破るのもで、ラスムッセンをこの大会から追放することに決定した」

主催者の最高権威であるクリスチャン・プリュドムはこう話す。

「彼はこのレースに参加すべきではなかった。明日の総合成績は実力を反映したものになるだろう。大切なことはツールを愛している人たちに正真正銘のツールを戻してあげることだ」

第17ステージ終了後、マイヨジョーヌはコンタドールの胸に。最終日前日の個人タイムトライアルで、猛追したエバンスをわずか 23秒差で逃げ切ったスペインの山岳スペシャリストは、24歳にしてこの大会を制することになる。史上初の5連覇を達成したスペインのミゲール・インデュラインの後継者と言われる男が、激震に襲われたレースを締めくくってくれた。

マイケル・ボーヘルトも家族と久しぶりの再会

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【ツール・ド・フランスリバイバル】2006年は終了3日後に覇者失格

新型コロナウイルス感染拡大を防止するために外出制限などで不自由な生活を余儀なくされているサイクリングファンに、過去記事をお送りします。1988年からツール・ド・フランス現地入りしている私ですが、1996年まではサイクルスポーツ編集部員としての派遣。その後独立しましたが、当時はポジフィルム撮影。そして暗黒の7年間となったので、2006年からツール・ド・フランスをリバイバル

ガリビエ峠を上るマイヨジョーヌのランディス
ツール・ド・フランス2006

波乱の2006年。最大の衝撃はパリにゴールしたあとだった

米国のランス・アームストロングが2005年に7連覇(現在は薬物違反で全記録はく奪)を達成して引退。翌2006年は新たな王者を決めるレースとなるはずだったが、最終日のパリでマイヨジョーヌを獲得した米国のフロイド・ランディスが、その3日後に禁止薬物のテストステロンを使用したことでドーピング違反となり、総合優勝をはく奪された。

ランディスはアルプスで行われた3区間の初日、第15ステージで首位に躍り出たが、翌16ステージで10分以上も遅れて首位を陥落した。ところが第17ステージで130kmを独走し、再び首位が狙える位置まで浮上している。その後、得意とする個人タイムトライアルで逆転したランディスは、最終日のシャンゼリゼにマイヨジョーヌを着て凱旋した。

第17ステージの信じがたい逃げを疑問視する他チームの選手や関係者も多かった。そしてその日のゴール後に行われた検査でランディスは陽性となったのだ。開催93回目を数える当時の大会で、総合優勝者が失格なったのは初めてだった。

ランディスは2002年に当時のUSポスタル(のちのディスカバリーチャンネル)に移籍し、それからの3年間はアームストロングのアシスト役をつとめた。アームストロングの7連覇のうち3勝は、ランディスの存在があってのものだった。

ランディスの失格にともなって、57秒遅れの総合2位でゴールしたスペインのオスカル・ペレイロが繰り上がり優勝となる。ペレイロは総合優勝できるようなオールラウンダーではなかったが、誰もがつなぎの区間と思われた第13ステージで5人の逃げを成功させ、後続集団に29分57秒差をつけて一時的に首位に。そのとき稼いだ貯金があって総合2位でパリにゴールしていた。

ただし事実関係の調査や審議などがあり、ペレイロがマイヨジョーヌを手中にするのは大会終了から449日後、2007年10月だった。

この年の存在感と言ったらアレクサンドル・ビノクロフ。ツール・ド・フランス2006

超人的アタックを成功させた第17ステージで薬物使用

ツール・ド・フランスで初の総合優勝を達成したランディスが、禁止薬物のテストステロンを使用していたことが大会終了後に明らかになった。

ランディスが「ポジティブ」となったのは第17ステージ終了後のアンチドーピングコントロール。検査は2つの検体が採取されるが、パリの表彰式から3日後の7月26日に、UCI・国際自転車競技連合が「ツール・ド・フランスの禁止薬物検査で、検体の1つが陽性となった選手がいる」と発表した。

ラルプデュエズで独走勝利したフランク・シュレック

2つ目の検体が陽性にならないと氏名は公表されないが、この第1段階でUCIはルールに則って所属チームと当該国の自転車競技連盟に選手名を通知している。

第1報を知った各メディアは情報収集に追われ、裏付けを取られたものが外電として世界中に流された。翌日には日本の一般紙にも掲載されるほどのショッキングなニュースだった。

ダミアノ・クネゴ。ツール・ド・フランス2006

すぐに「陽性となった選手が出たのは7月20日に行われた第17ステージ」と一部で報じられた。この日のステージ優勝者とマイヨジョーヌ、ランダムに抽出された選手など、その対象はすぐに絞り込まれ、その段階ですでにランディスではないかという憶測が生まれた。誰もが彼の人間業とは思えない逃げを目の当たりにしていたからだ。

翌27日にフォナックチームが、「陽性となった選手はランディスである」と緊急発表した。ランディスはツール・ド・フランス後の顔見世興行レースをキャンセルし、すぐに自らの弁護団を結成。当初は、「長年のハードなトレーニングやいくつかの要因が相乗効果となって体内で生成されたもの」と主張した。

フィリップ・ジルベール。ツール・ド・フランス2006

チームの発表後にUCIは、パット・マクワイド会長の名のもとに「ランディスが陽性反応の当事者である」と認めたが、ランディス側は事態の争点をすり替えるためか、「この段階で名前が公表されたことは明らかなルール違反」として争っていく姿勢だ。

8月5日には2つ目の検体も陽性であることが判明。分析結果により外部から摂取されたことが明らかであることも実証された。フォナックチームは「チームの規律に違反した」として、即日のうちにランディスを解雇した

フィリッポ・ポッツァート。腕には元カノのキアラのタトゥーが

総合優勝者が失格となったのは93回の歴史の中で「当時として」初めて

ランディスはアルプスで行われた3区間のうち、第15ステージで首位に躍り出たが、翌16ステージで10分以上も遅れて首位を陥落した。ところが第17ステージで130kmを独走し、再び首位が狙える位置まで浮上している。その後、得意とする個人タイムトライアルで逆転したランディスは、最終日のシャンゼリゼにマイヨジョーヌを着て凱旋した。

ツール・ド・フランスの総合優勝者に薬物使用の疑いがかけられたことは過去にもある。1988年の優勝者、ペドロ・デルガドも期間中の検体から陽性反応が出たが、禁止薬物にリスト化される寸前のものだったことから失格を免れた。

今回は、第17ステージの信じがたい逃げを疑問視する他チームの選手や関係者も多かった。それだけあからさまな挙動は、ランディス自身が自暴自棄になったのではとさえ考えられた。UCIがランディスを要注意人物としてマークしたのは当然だ。

マイヨジョーヌのランディスがシャンゼリゼにフィニッシュしたのだが…

ツール・ド・フランスの主催者は、「もはやランディスを総合優勝者とは見なしていない」とコメントし、その後の決定をUCIに一任している。とはいえ、この年のツール・ド・フランスは開幕前にジロ・デ・イタリアとツール・ド・スイスの総合優勝者を排除し、両大会の顔に泥を塗っていた。それだけに今回はそのしっぺ返しという感もあったようだ。

ランディスの2つ目の検体が陽性となった後、ペレイロは「チーム全体の努力によって、ツール・ド・フランスの総合優勝に導かれたという気持ちがわいてきた」とだけコメントした。


ツール・ド・フランスの歴史を知りたい人は講談社現代新書からKindle版の電書が出ていますので、お手にとってお確かめください。

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