【Blog】異次元のような空間…釈迦堂口遺跡が限定公開

異次元のような空間に迷い込んだことはありませんか? しかも身近なところで。鎌倉の釈迦堂口がまさにそこでした。5年前のまさに3月10日、鎌倉の北陵からいったん朝比奈の街道に下りてその南にある衣張山へ。円形に開けた見晴らしに出ると眼下に材木座海岸が見えるので、ここから海まで行けるルートがあるんじゃないかと推測できました。

国指定史跡である大町釈迦堂口遺跡の暫定公開(2026年3月10日)

開けたところの南西に踏み跡があって海に行ける!

そこでこのあたりにくわしい女性植木職人に問い合わせてみると、「見晴らしの南西あたりに踏み跡があるので、そこを下りていくと大町に出られます」とのこと。翌日の3月11日にはさっそく確かめに行きましたよ。道中で震災10年のあの時刻になったので手を合わせた記憶があります。

大町釈迦堂口の日月(じつげつ)やぐら(2026年3月10日)

ただし、衣張山の「円形の見晴らし」って2カ所にあるのです。たまたまもうひとつの見晴らしにも南西に踏み跡があったので迷うことなく急傾斜のルートへ。誰かが取りつけたロープもありました。しばらくして廃墟のような茶室が出現。もしかしたら私有地かなと思いましたが、崖が急なのでもはや引き返せず。

衣張山の間違えたアプローチ
実際の迷走ルート

さらに進むと朽ち果てる直前の朱塗りの太鼓橋があり、人工の階段を降りていくと場違いに広大な広場が出現。三方が岩盤で、やぐら(土地が狭い鎌倉では平地に死者を埋葬するのは禁止で、岩盤を掘って墓地にたそうです)がいたるところに。山を降りたらこんなところに来てしまったので、もう後ろめたさしかありませんでした。

ハイキングコースからの崖下りには手がかりのロープが張ってあった
奥まったエリアにたたずんでいた四阿(あずまや)

釈迦堂口遺跡は今後、公開の可能性も

現在、この釈迦堂口遺跡が特別公開されていて、ツアーもあると聞いたので奇しくも5年後に行ってきました。鎌倉時代は処刑者の火葬場だったことが調査で明らかになったとのこと。近代になって国際自動車(複数の個人ブログに国際興業のものとありますが間違いです)の別荘となり、その後は不動産会社の手に渡って開発される計画でしたが、近隣住民の反対により鎌倉市が管理する発掘調査エリアに。

今後は崩落防止などの安全対策を取って、一般公開する計画もあるということでしたが、できれば観光客が圧倒することなく、ひっそりとたたずんでいる一角であり続けてほしいです。

2つの巨岩は木造の太鼓橋でつながれていた(2021年3月11日撮影)

この遺構の直下には鎌倉七口の釈迦堂口切り通し(いわゆる素掘りの峠あるいはトンネル)があります。かつてボクが歩いていたときは新聞配達のバイクもくぐっていましたが、2010年に巨岩が崩落。さらに2011年の東日本大震災で損傷して通行止めの状態に。現在は復旧作業がほぼ終わり、2026年度中に再開する予定のようです。

ボクが友だちを誘って鎌倉トレイルを始めたきっかけは、東日本大震災。震災後にみんなが重苦しく過ごしていたので、アウトドアで発散しようよとお誘いして、いまでも冬場に継続しています。この時期に異次元の世界を再訪できたことがちょっと不思議でなりません。

岩盤に囲まれた平場(2021年3月11日撮影)

釈迦堂口切通も2026年度に通行再開予定

大町釈迦堂口遺跡の史跡指定範囲内に存在するトンネル部分(通称釈迦堂口切通)は2010年に崩落。さらに2011年3月11日の東日本大震災でも損傷し、ながく通行止めが続いた。復旧対策は2023年7月に完了。通行再開は2026年度を予定しているという。

【Blog】2026年はモネ没後100年…名画を描いた場所を自転車で訪ねてみよう

2026年は印象派の巨匠クロード・モネの没後100年。オルセー美術館から名作が日本にやってきてモネ展も開催されます。モネの名前はよく聞きますが、どんな人なのかに興味があってフランスから日本にやって来た関係者に話を聞きに行きました。

ヴァルーズ・ド・ヴォコットの絵画ワークショップ。ヴァルーズとは白亜の断崖から海へ落ちる谷状の地形 ©Marie-Anaïs Thierry
ル・アーヴル、アンドレ・マルロー近代美術館、クロード・モネ≪フェカン、海辺≫ ©Marie-Anaïs Thierry

モネが描いた原風景はノルマンディーとパリで会える

印象派を最も象徴する画家であるモネが生まれ育ち、暮らし、創作活動を行ったのはノルマンディーとパリです。《睡蓮》や《ルーアン大聖堂》の連作、《ひなげし》、印象派の名の由来となった《印象・日の出》はパリからノルマンディー海岸へと続くモネに着想を与えた風景、そして刻々と変化する光や空気感と切っても切れない関係にあります。

画家でありながら園芸家、美食家であった、規格外の芸術家。裕福な家庭の出身ではなく幼少期はじゃがいもばかり食べていたようですが、名声を得てからは食道楽に。朝食は常に6時で白ワインも。お昼は11時30分。卵黄を生クリームとパセリで和え、オーブンでグラタン風に焼いたものなどが好物。晩年を過ごした家はジヴェルニーにあって、これらを口にした部屋は忠実に再現されているようです。40年以上精力的に描き続けた「睡蓮」は庭の池を大がかりに拡張して植えたものだということです。

モネが好んだ鼠族なタマゴ料理

ファンゴッホを訪ねてオランダをサイクリングしたことも

2016年にボクはフィンセント・ファンゴッホが描いた絵画の原風景を巡る旅をしてきました。自転車を移動手段として使うのがちょうどいい感じで、思い出深いサイクリング紀行に。今回のモネはフランス北部のノルマンディー地方を題材としたものが多く、ここでも名画と同じ光景に出会うことが可能なようです。

ジヴェルニー、クロード・モネの庭園 ©Thomas Le Floch
ジヴェルニー、睡蓮 ©Marie-Anaïs Thierry
ヴェルノン美術館、クロード・モネ≪睡蓮≫ ©Thomas Le Floch

ノルマンディーの印象派関連名所をPRする担当者は、「産業革命時代に描かれたモネの絵画ですが、環境変動で原風景が変わってしまわないように自転車などで訪れることをおすすめしたい」と。

オランダやベルギーではそんなのどかなツーリングを楽しみましたが、フランスでは一度もしたことないんです。体験してみたいなあ。

マルモッタン・モネ美術館庭階 – クロード・モネの展示室 ©Christian Baraja SLB
シャトゥー 印象派の島 ©C. Ledoux
セーヌ河沿い、ヴェトゥイユ ©Nathalie Lecerf

【Blog】モンヴァントゥー…パディントンからファーブル昆虫記まで

「というと、くまのムッシューはツール・ド・フランスをご存知ない?」

これは1970年に初版発行された「パディントン、フランスへ」の、とある章の書き出しです。物語ではパディントンが選手団にまぎれ込み、ツール・ド・フランスで勝ってしまうという奇想天外な話が展開していきます。

山頂から西側のマロセーヌにダウンヒル。ツール・ド・フランスではゴール後の下山道となる

ファーブル昆虫記第1章の第1ページからいきなり!

専門家からするとパディントンは勝ったわけではなく、とあるステージの中間スプリント賞を獲得したのだと推測できますが、「三輪車でいいんか?」とか「飛び入り参加は認められるんか?」とか、そもそもクマがツール・ド・フランスに出場できるのかと突っ込まないでください。

山頂を肉眼で確認しながらひたすらペダルを踏む
モンヴァントゥー山頂からツール・ド・フランスのコースに使われる東麓側を望む

小学校の図書館に必ずある「ファーブル昆虫記」。第1章の第1ページからいきなりモンヴァントゥーに上る話が書かれています。かつてのフランスでは「虫は悪魔の使い」であり、日本の男の子のようにカブトムシを捕まえたりすることはなかった時代、モンヴァントゥーに25回も上ってフンコロガシを観察していたのだから尋常ではありません。

冬のモンヴァントゥー山頂

ツール・ド・フランス最大の番狂わせがここで

ボクが初めて行ったモンヴァントゥーのステージはまさかの展開で話題になりました。1994年、スーパースプリンターのマリオ・チポッリーニをアシストするイタリアのエロス・ポーリが独走。ゴールスプリントの牽引役ではなく、レース中盤にメイン集団の先頭を3時間にわたって走り、逃げた選手を吸収する役目を担った大型選手でした。

ところがモンヴァントゥーがコースとなったそのステージで序盤から単独で逃げ続け、「ポーリは上りで捕まえられるだろう」という予想に反して、モンヴァントゥーの上りを地味なスピードでクリア。頂上からの下り坂でアドバンテージを守り、ゴールのカルパントラスで舞台俳優のように声援に応えながらフィニッシュ。プロ初勝利を飾りました。

夏の教会
厳冬期の教会

翌日のカルパントラスのスタート地点には一輪の花を口にして登場。そんなシーンもキザには見えない。検索してチェックしてみてください。

真冬はまさに死の世界と化す
市立図書館の児童書コーナーで手に取った
ファーブル昆虫記の第1章、1行目からモンヴァントゥーの文字が

【Blog】ツール・ド・フランスの象徴が日本に持ち込まれた価値

本物のツール・ド・フランスを日本に持ち込みます!というふれこみで2013年に始まったツール・ド・フランスさいたま。その象徴ってマイヨジョーヌかもしれませんが、現場感あるのがコースの進行方向を示す黄色い看板かと思います、一般的にわかりやすいのは。

ツール・ド・フランスで活躍した選手たちと交流できる ©A.S.O.

フランスでは選手たちの通過後に観客が自主協力!?

本場では前日に掲示され、選手たちが通過した後は回収スタッフが取り外すことになっていますが、沿道のファンも積極的に手伝います。一般的に言うとかっぱらうのですが、それもツール・ド・フランスだとボクは信じています。

いちおうボクの中でもそれは象徴で、「引退するときは1枚かっぱらっていこう」と20年前から心に決めていて、今年念のために回収係のお手伝いをしておきましたw

ツール・ド・フランスの象徴でもあるコースの進行指示パネル

ツール・ド・フランス関係者は毎日PPOを目指す

でもボクたち取材陣の中では、この矢印以上にツール・ド・フランスそのものの掲示物があるんです。それがPPO。ツール・ド・フランスのすべての基点です、

町から町へと転々とするツール・ド・フランスは、23日間とどまることなく移動を続ける特異なスポーツです。主役は自転車で走る選手。それ以外のほとんどはクルマで追従。その数およそ3000台。スタートの町には大小さまざまな関係車両が集結します。黄色いステッカーを貼ったチームカーや審判車、緑色のプレス、ピンクの広告キャラバン隊、水色はそれ以外の関係車両。大型車両やスポンサーはコースに入れないオレンジです。

LINEニュースのトップに提供記事が掲載される

さまざまな役目を持つこれらの車両を円滑に制御するために関係車両の動きは完璧にコントロールされます。スタート地点にはPPO(Point de Passage Obligatoire)という通過義務地点が設定され。前日にどこに泊まっていようとも、翌朝はまずここを通らなければならないのです。数人の若い車両スタッフが朝から待機していて、その役職や動きに応じて適切な場所に駐車させる。繁華街の限られたスペースに関係車両を見事に振り分けるのだからたいしたものです。

石川七海(千葉・八千代松蔭高)。冬季五輪採用の可能性が高いシクロクロスで世界を目指す

そのPPOの看板が第1回さいたまに持ち込まれたとき、ボクはA.S.O.が本気だと確信しました。でもかっぱらうには軽トラの荷台が必要なので手に入れるのはやめましたけどね。いずれにしても11回目のツール・ド・フランスさいたま、無事に終わったことをご報告します。

かつてJSPORTSで実況を担当した白戸太朗さん(右)と筆者

【Blog】先代から継承した日本刀を買い取ってもらい、ようやく安堵

「コラム」より気軽に読める「ブログ」を始めました。日々の気付きを写真とともに気軽にご紹介していきます。第1回は断捨離の日々として、家に保管し続けるには肩の荷が重い刀剣類を手離したお話です。

出自を調べてもらったら、陸軍がここに従事した兵隊に贈呈したものだそうです

文化財として価値の分かる人に渡りつくように

ようやく刀を4振り手放すことができました。先祖が持っていたもので、一時は甥や姪が銃砲刀剣類登録証の名義変更して受け継いでくれましたが、手に負えないものなので長男であるボクがちょっと前に引き取ることに。警察に届け出て断裁処分してもらうこともできますが、文化財でもあるのでしかるべきところで買い取ってもらいました。

先代から受け継いだものを手放したら罰が当たるのでは? なんて心配する方もいると思いますが、おそらく大丈夫です。祖父が日本刀よりも大事にしていた弓具一式はボクが継承していますから。とはいっても名士だった祖父の竹弓と漆塗り弓、強すぎて引けません。竹矢もワシントン条約に抵触しそうなので、漆塗りの矢筒しか使えていませんが…

祖父はネットで検索すると出てくるほどですが、残念なことに血が繋がっていません。ボクの生まれる11年前には他界しているので、会ったことないのです