1903年に始まったツール・ド・フランスが世界最高峰の自転車レースになった要因は3つある。世界のスポーツイベントのどれよりも早く商業化を導入したこと。バカンス時期に開催されること。そしてフランスの美しい大自然が舞台となることだ。
ピレネーなんて走ったら選手が人食いグマに襲われるだろ!?
1910年の第8回大会、当時の大会ディレクターであるアンリ・デグランジュが、「自転車でピレネー山脈を越えることができたら、どんなに素晴らしいだろう」ととんでもないことを提案した。
だれもがそんなことは無理だとちゅうちょした。それというのも当時の自転車は変速機がなく、平たん路も上りも同じギヤで走っていたからだ。選手はパンクに備えてタイヤとチューブを肩にたすき掛けして、水の入った容器をハンドルにくくりつけていた。100年前はそんな時代だった。
フランス南西部、スペインとの国境にそびえるピレネー山脈。その当時はクマやワシなどの凶暴な野生動物が生息しているとされ、選手が襲われて餌食にならないだろうかと本気で心配した。
「演じられたことのないようなドラマを大観衆は目撃できる。翌日には新聞の一面を飾り、手に汗を握るようなレース展開が全国に報じられる。これこそがツール・ド・フランスのやるべき道なのだ」
こうしてその年に参加した136選手は、それまでの常識をはるかに超えた過酷な上り坂を体験することになる。ピレネーの4つの峠、ペイルスールド、アスパン、オービスク、そして標高2115mのツールマレーがコースに加えられた。選手にとっては苦しさとの戦いで、主催者をののしる選手もいたほどだ。
翌日の新聞は「過酷な山岳は勝負を決する治安判事だ」とかき立てた。これに呼応するように、上り坂で展開する真剣勝負を見ようとフランス中から大観衆が山岳区間に集まるようになり、歴史を刻んでいくいくつもの名勝負を目撃することになる。こうしてピレネーの峠越えは毎年の定番となり、それに加えてアルプスの山岳ステージも加わった。
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