世界40カ国以上でスポーツを通じた社会貢献活動に取り組んでいるローレウスのアカデミーメンバーである元陸上競技米国代表、マイケル・ジョンソンが、10月10日の世界メンタルヘルスデーに合わせてメッセージを発信。自らの現役時代のメンタルヘルスに関連する体験談や、誰かが辛い状況に陥っているときに周りができるサポートなどについて語った。
どんなに優秀なアスリートであっても、スポーツ心理におけるメンタル面が、その身体能力を凌駕してしまうことがある
大坂なおみ選手がメンタルヘルスを理由に全仏オープンを棄権したことを初めて耳にしたとき、私は何が起こっているのかあまり理解できていませんでした。 しかし、先日大坂選手が「自分自身もまだ理解しようとしているところだ」と語ったように、第三者である私が理解できなかったのは当然なのです。
体操のシモーネ・バイルス選手が東京オリンピックで棄権したとき、私はBBCで仕事をしているところでした。全仏オープン以来、大坂選手の件をずっと考えていたので、今回は少し待ってみようと思ったのです。シモーネ選手が徐々に明かしていく心の内を聞くにつれ、理解は深まっていきました。
体操関係者の間では長く話題になっていた「ツイスティーズ」と呼ばれる現象についても学びました。どんなに優秀なアスリートであっても、スポーツ心理におけるメンタル面が、その身体能力を完全に凌駕してしまうことがあるのです。
選手が太ももの裏をつかんで、足を引き上げるのを目にすれば、何が起きているのかは大体わかります。何が問題なのか、それを解決するためには何が必要なのか、その選手がどのように感じているのかが理解できます。
メンタルヘルスは、私たちの誰もが影響を受けうる問題です。しかし、その影響の程度はひとりひとり異なります。放送スタジオやソーシャルメディアで、リアルタイムに診断や分析ができるようなものではないのです。私たちはしっかりと耳を傾けなければいけません。
メンタルヘルスという言葉は、私が現役選手のころはあまり使われておらず、馴染みがありませんでした。しかし、スポーツ心理に関する議論はさまざまなところでなされていました。マインドセット、集中力、プレッシャー下でのパフォーマンス、周囲からの期待、そして一般人よりもはるかに複雑なアスリートのワークライフバランスなど。当時の分析は、いずれもメンタル面と関わりのあるものでした。
実際には、スポーツ心理と、スポーツ選手のメンタルヘルスとの間に、はっきりとした境界線はないのです。若い選手たちが競技におけるストレスに対処する方法も、ワークライフバランスの取り方も、同じように語られるべきものなのです。
メンタルヘルスは、私たちの誰もが影響を受ける問題であるが、その影響はひとりひとり異なる
かつての私や今の大坂選手、シモーネ選手が競技しているような世界トップレベルになると、何百万人もの人々の前でパフォーマンスすることになります。フィジカル面をどんなに整えていたとしても、精神的な負担は存在します。このときのために人生をかけてトレーニングしてきて、心の底から成功を望んでいる。けれども、失敗するかもしれないし、このような機会は二度とないかもしれない。チームメイトを失望させてしまうかもしれない。契約が更新されないかもしれない。そして何より、皆がいつも自分を見ている。
大坂選手やシモーネ選手にとって、実際にどのようなことを負担に感じていたのかは私には分かりません。それを理解するには、本人たちの話を聞く必要があるからです。ここでは、私の場合がどうだったかをお話します。
リアルタイムに診断や分析ができないため、周囲がしっかりと耳を傾ける必要がある
1992年、バルセロナオリンピック。私は24歳でした。当時の私は、2年にわたり200mでの無敗記録を更新し続ける世界チャンピオンであり、金メダルの最有力候補と言われていました。 ところが、大会開幕直前に食中毒になってしまったのです。
症状が回復したときは、それがのちにオリンピックの舞台でのパフォーマンスに影響するとは思いもしませんでした。順調に回復し、体調もよかったのです。スタートの号砲が鳴り響き、 レースが始まるまでは…。そのときは、まるで誰か他の人の体で走っているような感じでした。
結果、準々決勝までは進めましたが、決勝には届きませんでした。
米国代表チームには、1992年当時でもスポーツ心理士が同行しており、私はすぐに面会することになりました。チームは、私が“スランプ”と呼ばれる、負のスパイラル状態に陥ってしまう可能性があると考えていました。スランプ中は、自分自身を信じられなくなります。まさにそれは私に起こっている状態でした。
しかし、ホテルの一室で、心理士の前に腰を下ろした瞬間、これは自分が必要としていることではないと気付いたのです。もちろん、人によっては効果的な方法なのかもしれません。ただ、私には当てはまりませんでした。
私はラッキーでした。両親が兄姉とともにバルセロナに来てくれていたのです(私は5人兄弟の末っ子です)。父はホテルの部屋に来てくれて、私は自分の気持ちや不安を、父が理解してくれると思いました。父はただ私の話を聞いてくれました。そして、私にこう言ったのです。
「お前は決勝戦で負けたわけではない。今回は優勝できなかった。だがそれは、競技に加われない状況だったからだ」と。
これは私の競技人生の中で最も落胆した出来事であり、その気持ちは米国に帰る飛行機に乗ってからも変わりませんでした。 帰国後数週間、家の中でじっとそのことだけを考え続けていました。今思えば、私には考える時間が必要だったのだと思います。私は怒りを感じなければならなかったし、失望しなければならなかった。起こった出来事を消化する前に、まず、こういった感情をすべて経験しなければならなかったのです。
次第に、バルセロナオリンピックでメダルを獲得した3選手のことを考えるようになりました。金、銀、銅メダリスト。オリンピック前の2年間、私はその全員と何度もレースをして、彼らに負けたことは一度もありませんでした。そう考えると、来年のレースでは、彼らに勝ち、自分が1位でゴールする可能性が十分あることに気づいたのです。 私は何も間違ったことはしていない。 本来の力を失ったわけでもない。 そして、私が世界最速の200m走者であることに変わりはないのだから、と。
辛い状況に陥った際には、自分自身を知り、自信を持つことが大切
1996年、アトランタオリンピック。私はそれまでのキャリアの中で、一番プレッシャーを感じていました。その一部は自分自身に原因がありましたが、あえてその状態を望みました。こういった問題をアスリートたちに話すとき、私はいつも同じところから始めるようにしています。それは、自分自身を知る、ということです。自分の強みや弱み、モチベーション、恐怖心、その理由は何なのか、ということについて、できるだけ正直に見つめることです。
1996年を迎えるまでに、私は本当の自分を理解するようになりました。自分が、最も大きいプレッシャーの中で、最も幸せで最高の状態になれることを知っていました。 私がイメージしていたのは、オリンピックや世界選手権の決勝戦が始まる30分前のコールルームに、私と7人の選手がいるところです。30分後に、そのうちの1人が金メダルを手にし、他の7人は獲得できません。
私は金メダルを取るのが自分であって欲しいと考えています。そして、皆も私が取るのだと何となく感じているのです。もし、このような瞬間に自信が持てなかったら、自国開催のオリンピックで200mと400mのダブル出場ができるよう、IOCにスケジュール変更を要請しなかったでしょう。そして、あの黄金のスパイクを履くこともなかったでしょう。とても悪い結果に終わる可能性もありました。
自分自身を信じることに加え、家族やスタッフなどのサポート・応援が回復を後押しする
3年前の2018年、マリブで脳卒中を発症しました。発症後は、身体に加え精神的なリハビリも行いました。メンタル面の回復はとても大変でした。 脳から体の一部への接続が断絶されていたため、歩き方も一から学び直しました。それまで当たり前だと思っていた歩くための一連の動作がすべて失われてしまったのです。回復できるという確信がないまま、リハビリを行っていました。 鏡を覗き込むと、そこにいる人物は、かつての自分の姿と重なって見えました。そして、自分の運動能力がすべて、あるいは一部でも回復するかどうかさえ分からず、自信がありませんでした。
やがて、私は1992年のバルセロナオリンピックの後と同じように考えるようになりました。自分の中にある恐怖や怒り、悲しみを素直に感じることを、自分に許してあげる必要がありました。 そして、自分の生活の質をできる限り回復させることをモチベーションにしたのです。 脳卒中が起きる前と同じように、ハイキングやサイクリング、パドルボードを楽しめる自分になりたいと思ったのです。
こうして私が経験した過程を話してみると、解決策は自分自身の中から生まれたものなのだと改めて思います。 しかし、私の家族やマイケル・ジョンソン・パフォーマンスのスタッフ、そしてソーシャルメディアで私の回復を見守ってくれていた人々のサポートがなければ、私の回復は実現しませんでした。 彼らが私を後押ししてくれたのです。
10月10日は世界メンタルヘルスデーです。この問題をただのきれいな箱に入れてしまわないでください。この問題を箱にしまうことはできません。この問題は、テレビの中のスポーツ界のスターにも、あなたが一緒に暮らしている人々にも影響を与えるものです。そして、その影響の仕方はひとりひとり全く異なるのです。
誰もが、自分の成功と失敗の両方を、実際よりも大きく見せてしまうことがあります。トレヴァー・モアワドは私の親しい友人で、最高のスポーツメンタルコンディショニングコーチでした。個々の問題に取り組むことでアスリートのパフォーマンス向上を支援する団体「マイケル・ジョンソン・パフォーマンス」でともに働いた仲間でもありました。トレヴァーは残念ながら最近亡くなりましたが、ニュートラル思考、中庸を維持する方法や、どんな状況でも現実的でいる方法をテーマにした本を書いています。
これらは私たちが自分自身を大切に扱うために必要なツールです。そして、互いに助け合うこともまた必要です。私が脳卒中から回復できたのは、人の助けがあったからだと思っています。バルセロナで父を必要としたとき、父がそこにいてくれたことを覚えています。 一流アスリートや身近な人が彼らのメンタルヘルスについて打ち明けたときに、私たちにはできることがあります。それは、耳を傾けることです。
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