自転車専門誌のサイクルスポーツが「別冊付録 ツール・ド・フランス 」を初めて発行したのが1989年。今中大介が日本人プロとして初出場を果たす1996年まで1冊まるごと担当してきました。翌年からは個人として全日程を追いかけるようになりますが、その開幕地がルーアンでした。

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日本選手がいないのになんでいるんだ?
今でこそ日本選手が当たり前のように参加するようになったものの、28年前はこの世界最高峰の自転車レースに日本選手の姿があることを想像できませんでした。ツール・ド・フランスの厳しさを現場にいて肌で感じているだけに、表彰台に日本選手が乗るというイメージができなかった。それほどツール・ド・フランスは、はるかなる存在でした。

開幕を迎えるルーアンの町に立ったときは、クルマを一人で運転しながら全日程を追いかけていけるのだろうかと不安でいっぱい。サルドプレスの一番隅に席を取ると、隣に座った記者が声をかけてきたのを覚えています。
「日本選手は出ているのか?」
「いないのになんでいるんだ?」
そう言われるのは当然だったけど、くやしさは飲み込むしかない。いつかは日本選手が表彰台に立ってくれると信じて、毎年自費でフランス一周の旅をするしかありませんでした。
新城幸也の敢闘賞登壇はMCの声しか聞けなかった
2012年、第4ステージのルーアンでボクたち日本人取材陣が溜飲を下げるときが到来。新城幸也が4km地点でアタックし、ゴールを目指して逃げに逃げて最終的に捕まるのですが、敢闘賞を獲得。日本選手が表彰台に上る歴史的な日となったのです。

で、表彰式。カメラマンは舞台の正面に陣取れますが、ボクは記者なので表彰台の裏側しか入れない。それでも受賞者はコンタクトエリアでテレビ局、地元ラジオ、そして活字メディアの順にインタビューを受けるという流れ。ボクは大会のアテンド係に「アラシロの話が聞きたい」と伝え、活字メディアの場所で彼を待っていたものの、テレビやラジオの取材が終わったとたんに、「敢闘賞の表彰の時間だ」と連れていかれました。つまり話もなにもできかった。
かくして日本勢初の表彰台。カメラマンや日本の視聴者のみなさんはしっかりと晴れの舞台を見たはずですが、ボクは舞台裏で司会者ダニエル・マンジャスのコールと大観衆の声援しか聞こえませんでした。

2日後に日本のスポーツ新聞で初めてのトップ記事
もちろん新城はわれわれ取材陣が待ち構えているところに来てくれたのでしっかりと話を聞くこともできました。そのときのボクは気持ちが高揚していて、しかもすぐに新聞社に原稿を送らなければならなかったので仕事に集中。すでに日本の朝刊の締め切りは過ぎていたので、翌々日になってしまいましたが日本のスポーツ新聞として初めて一面トップで自転車記事を掲載。

夜遅くルーアン郊外のホテルに入って奇跡的に開いていたレストランで食事をして、ようやく部屋で落ち着く。別にボクは選手じゃないので、くやしかったことやツラかったことなどないんだけれど、いろいろなことが脳裏をよぎりました。


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