ジロ・デ・イタリア公式バイクとなったコルナゴはどんなブランドなのか

イタリアの自転車メーカー、コルナゴがジロ・デ・イタリアのオフィシャルバイクとなった。自転車競技界最強のエディ・メルクスや現世界ランキング1位タデイ・ポガチャルが愛用する自転車の歴史をまとめてみた。

コルナゴ私邸のエントランスにある雨水桝はブランド象徴のクローバー型

自転車競技の歴史を書きつづってきたイタリアブランド

2008年に調べたデータだが、それまでの40年間で合計140のプロチーム、2500人の選手に機材供給。累積7000勝を挙げてきたコルナゴブランド。語り尽くせぬほどのエピソードのなかで、記憶にとどめておきたいものをここに紹介。

いろんな選手に関わってきたが、
メルクスのために働けたのが大きな喜び。
1年で26本もフレームを作ったことがある。
ブリュッセルの自宅から朝早くやってきて
すぐに持ち帰ってくれたものだ……。

創業者エルネスト・コルナゴ。すべての転機は落車骨折

エルネスト・コルナゴは1932年に農家の長男として誕生。11歳のときに地元カンビアーゴの工場で働き始め、そこで初めての溶接を経験した。

1945年11月25日には大手自転車メーカーとして知られたミラノの工房グロリアの見習いとなる。その翌年には選手としてレース活動を始めている。

小柄な体格ながら将来性あふれる有望な選手だった。15歳のときにロードレースで初勝利。以後、コッパ・カルディローラを含め13勝を挙げるのだが、それがエルネストの選手としての全実績だ。

コルナゴのニコラ・ロジンCEO。セッレロイヤルやフィジークを統率してきた経営者だ ©LaPresse

それというのも20歳を目前としたミラノ〜ブセットのレース中に落車。左足を骨折してしまい、60日間をギブスで過ごし、競技生活断念せざるを得なくなった。

しかしこのギブス生活を強いられているとき、グロリアでホイール組み作業を教えてもらうことになった。翌年にはグロリアを出て、カンビアーゴの小部屋を借り、自転車製造修理の下請け業を始める。コルナゴの歴史はここに始まるのだった。

堅実なメカニックとして自転車界で修業を積んだ

1954年、正式に自らの名前を冠した店をオープンする。

そんなコルナゴの名前が自転車界で有名になったきっかけは、ニベアチームのプロ選手だったフィオレンツォ・マーニとの出会いだった。

マーニはその当時、供給された自転車が身体に合わなかったため、足の故障に苦しんでいた。ある日、使用していた自転車を持ってカンビアーゴを訪れるのだが、エルネストがクランクを調整すると、数日後にはマーニの足の痛みが消えうせたという。

スター選手は一瞬にしてこのメカニックの腕のよさを見抜いた。

マーニの要請でエルネストはチームメカニックとしてジロ・デ・イタリアに帯同するようになる。

エルネストはこうしたメカニックとしての活動をするかたわら、自転車作りにも継続して情熱を注ぎ続けた。1958年にはコルナゴバイクに乗ったルイージ・アリエンティがローマ五輪のトラック競技で優勝する。これがコルナゴにとって初のビッグレースでの優勝だった。

ペイント職人が塗装ガンでいたずら書きしたエルネスト・コルナゴ氏。2021年にコルナゴ社を勇退

伝説となるクローバーマークの誕生

1959年には幼なじみのジョルジオ・アルバーニのすすめで、1973年まで所属することになるモルテーニのメカニックとして迎えられる。ジャンニ・モッタやミケーレ・ダンチェッリらスーパースターを陰で支える役どころをこなす。

さらに1964年からはイタリアナショナルチームのメカニックとして数年を過ごす。1966年にはモルテーニのジャンニ・モッタがジロ・デ・イタリアで優勝するのだが、それを陰で支えたのもエルネストだった。

1970年3月19日。ミケーレ・ダンチェッリがミラノサンレモを制したのち、クローバーマークをブランドのシンボルに採用した。以来そのマークを見ればイタリア人ならコルナゴとひと目で分かるほどの孤高の存在となる。

自転車競技史上最強の男との運命的出会い

1971年にモルテーニは自転車競技界最強の選手といわれるエディ・メルクスを迎える。この出会いはエルネストにとって、そして同時にコルナゴというブランドにとって非常に重要なものだった。

コルナゴ社の会議室にあるテーブル脚はカーボン製のバトンホイールだった

エルネストは多くの選手に関わってきたが、メルクスのために働けたのが大きな喜びだったという。フレームのサイズにシビアだったメルクスのために1年で26本もフレームを作ったことがある。

メルクスは1972年10月25日、メキシコシティで最先端の新素材を使用したコルナゴ製の超軽量マシンでアワーレコードの新記録を達成した。このとき使用されたリブ入りフレームはすぐに市販モデルに取り入れられるのだが、以来他メーカーが驚くほどの画期的イノベーションを次々と市場に投入していった。(続く)