阪神タイガースファンならサイクリングウエアを着て開幕を待とう

自転車関連商品通販サイトのワールドサイクルが、阪神タイガースとのコラボでサイクルウエアを発売する。ジャージが3デザイン、ビブショーツが1デザイン。

◆阪神タイガースジャージ トラ柄
◆阪神タイガースジャージ ストライプ
◆阪神タイガースジャージ デジカモグレー

サイクルウエアのベーシック機能を備えたモデル。吸汗速乾性、伸縮性に優れた高機能素材を採用。内部の汗を素早く吸水し蒸れを防ぐので、いつでもサラッとした着心地を実感できる。裾滑り止めシリコンゴム標準装備。豊富なサイズ展開で男女問わず着用できる。

材質 : ポリエステル100%
仕様 : 3分割バックポケット付き
製造 : サンボルト S-RIDE
1万3200円(税込)

◆阪神タイガース ビブショーツ
裾滑り止めシリコンゴム標準装備。豊富なサイズ展開で男女問わず着用できる。

材質 : 【メイン】ナイロン80%、スパンデックス20% 【サブ】ポリエステル80%、スパンデックス20%
仕様 : パット入り、肩紐付き
製造 : サンボルト S-RIDE
1万3200円(税込)

予約は2020年5月6日まで。2020年6月中旬頃入荷予定だが、変更になる場合がある。

●ワールドサイクルのホームページ

【ツール・ド・フランスリバイバル】2008年はサストレが僚友からマイヨジョーヌを譲り受けた

前年に総合優勝のアルベルト・コンタドールまで23秒差に詰め寄ったシランス・ロットのカデル・エバンス(オーストラリア)が優勝の最有力とされた2008年。これに対してCSCチームは山岳派のカルロス・サストレ(スペイン)をエースに指名し、フランクとアンディのシュレック兄弟(ルクセンブルク)がこれをアシストするという布陣を公言した。

ラルプデュエズで独走優勝したサストレが僚友シュレックからマイヨジョーヌを譲り受ける ©ASO / POOL

第4ステージの個人タイムトライアルでエバンスは個人総合4位に浮上。序盤戦の勝負どころである第10ステージではフランクを総合成績でわずか1秒差ながら上回り、エバンスは初めてのマイヨジョーヌを獲得した。CSCのエースはこの時点でサストレから、1秒遅れの総合2位フランクになった。

アルプス初日の第15ステージでエバンスが窮地に陥った。弟のアンディらCSCのアシスト陣がハイペースで最後の上り坂でペースメークすると、エバンスの援護をする者は一人もいなくなる。

サストレがアタックしても、エバンスは見送らざるを得ないほど消耗していた。フランクはエバンスに追従しながら、その姿を冷静に把握していた。無線でビャルネ・リース監督に指示を受けたフランクが一気に1秒差の逆転を図った。フランクはエバンスよりも9秒早く先着し、総合成績を逆戦する。

ツール・ド・フランス2008

しかしエバンスとの差はわずか8秒。最終日前日にはエバンスが得意とする個人タイムトライアルが設定されているので、エバンスが有利なことは明かだった。

こうして最難関である第17ステージへ。ゴールのラルプデュエズにさしかかるとCSCチームは思いもよらぬ作戦に出た。49秒遅れの総合4位サストレがアタックしたのだ。

「エバンスとのタイム差は問題で、タイムトライアルで逆転される可能性が高い。サストレのアタックはマイヨジョーヌを獲得するために唯一残された手段だった」とCSCのリース監督。

このラルプデュエズで独走勝利したサストレが、49秒遅れの総合4位から一気に首位へ。チームメートのフランクからマイヨジョーヌを引き継いだ。最終日前日のタイムトライアルでもサストレは、エバンスとのタイム差をきっちり守って初優勝を決めた。エバンスは2年連続で総合2位に甘んじた。

マーク・カベンディッシュが第5ステージでツール・ド・フランス区間初勝利 ©ASO / POOL

初勝利の「おしゃぶり」ポーズがトレードマーク

2003年の第13ステージは大会後半の勝負どころ、ピレネー山脈での第1ラウンドとして、トゥールーズからスキーリゾートであるアクス3ドメインまでの197.5kmで行われた。この年はランス・アームストロングが7連覇(のちに薬物違反で記録抹消)した中で最大の苦戦を強いられたもので、猛暑の中で白熱した戦いが繰り広げられていた。最大のライバルであるヤン・ウルリッヒが激しい抵抗を見せていたのだ。

この第13ステージで、二強のつばぜり合いを尻目に独走を決めたのが、当時28歳だったスペインのカルロス・サストレだ。サストレはCSCチームの中で、タイラー・ハミルトンのアシスト役をこなしていて、この時点では総合16位。有力選手にとっては多少の逃げなら容認できる存在だった。

初優勝の舞台となったアクス3ドメインは、総合2位のウルリッヒがアタックし、7年間で唯一アームストロングが遅れた上り坂だった。それほどの急峻な峠を飛ぶようなペースで駆け上った小柄な山岳スペシャリストが一躍脚光を浴びた。

区間2位でゴールしてくるウルリッヒに1分01秒の差をつけてゴール手前に単独で現れたサストレは、背中のポケットから乳児用の「おしゃぶり」を取り出し、それを口にくわえるという奇妙なウィニングポーズを実にまじめな顔つきでやってのけた。

「最後の上り坂にはボクの親戚や友人がたくさん来ていた。彼らの声援がボクの支えになった。おしゃぶりをくわえたのは、この勝利を息子のジェダイに捧げたかったから」

以来このおしゃぶりは、サストレファンクラブの象徴としてTシャツの図柄にもなっているほどだ。

カルロス・サストレがラルプデュエズでアタック

コンタドールとは異なる、落ち着いた都会派サストレ

カルロス・サストレはスペインの首都マドリッドで生まれた。ツール・ド・フランスの歴史に出てくるフランス選手の中で、「パリっ子」はローラン・フィニョンくらいしか思い浮かばないように、都会派育ちという珍しいスペイン人レーサーだ。

それだけにどことなく落ち着いた性格で、社会的な言動にもそつがなく、振る舞いも大人びたものだ。

「アルベルト・コンタドールとは違うよね」とスペイン人記者が含みを持たせた言葉をよく口にした。

ボクは最後までその真意をつかみかねていたのだが、サストレが優勝することになった段階で、スペイン人記者が歓迎する勝利であったことが周囲の雰囲気から推察できたので、少なくともサストレ自身が愛される人物であることだけは間違いないと感じた。

スペイン・バスク地方出身のミゲール・インデュラインがだれからも好かれる存在だったことで、その恩恵を受けてアシスト陣の献身的なサポートを受けて5連覇を達成したように、サストレには目立つことこそないが、エースたる資質は当然のように備えているのである。

ツールマレー峠でフロントフォークを折ったウジェーヌ・クリストフが自らの手で溶接した鍛冶屋は民家として現存する

1997年にオンセチームでプロデビューし、このスペインチームで5年間走った。2000年にはブエルタ・ア・エスパーニャで山岳王になるとともに、総合8位。

2001年にはツール・ド・フランス初出場を果たし、エースのホセバ・ベロキを総合3位の表彰台に送り込むと同時に、自らも総合20位でゴール。それ以降も2002年10位、2003年9位、2004年8位、2005年21位、2006年4位(ランディスの失格で記録は3位に修正)、2007年4位と毎年完走し、まずまずの成績を修めてきた。

2002年にはデンマークのCSCに移籍した。スペインチームを離れ、リース監督率いるこのチームに移籍したことが、単なる山岳派からメジャー優勝をねらえるオールラウンダーへの転身を助長したといっても過言ではないだろう。

CSCチームではすぐに、ジロ・デ・イタリアやツール・ド・フランスの山岳でのアシスト役としてなくてはならない存在になった。2003年にツール・ド・フランスのピレネーで最初の区間優勝。記録の上では2006年の第16ステージで2勝目を挙げているが、これは例のフロイド・ランディスがドーピングで失格となったことによる繰り上がり優勝だ。

2006年のジロ・デ・イタリアではイバン・バッソの総合優勝に大きく貢献。そして翌年にバッソがCSCから離脱するといよいよエースとしての座が回ってきた。すでに31歳で、遅咲きのエースだった。

「今年のコースはまさに自分好みのもので、ボク自身の調子もこれまで以上にいい」

三大大会のすべてでステージ勝利を飾り、常にコンスタントな成績を修めてきたサストレ。しかし総合優勝の経験はない。前年の覇者アルベルト・コンタドールが招待されないという盟主不在のレースでも、サストレを優勝候補の最有力と見なす取材陣は少なかった。

個人的な実力からすれば前年の2位エバンス、そして世界ランキングで1位になるような実績を持つバルベルデやクネゴを押す声が多かった。しかもCSCチームで急成長のシュレック兄弟を「隠れエース」とする意見もあったはずだ。

第15ステージのプラトーネボソでエバンスを逆転して初めてマイヨジョーヌを着用するのがフランク・シュレックだが、このとき絶妙のアシスト役をこなしたのがサストレだった。この第15ステージでCSCのシュレックとサストレは、ラボバンクのメンショフとともに共同戦線を張った。お互いに揺さぶりをかけてマイヨジョーヌのエバンスだけをふるい落とそうという作戦だった。

CSCはチーム一丸となってマイヨジョーヌを獲得しようという意志が非常に強かった。

その一方で、エバンスのアシスト態勢はないものに等しかった。南半球出身選手が初めてマイヨジョーヌを着用するかどうかという事態に、保守的なヨーロッパ社会が拒否反応を起こしたのかもしれない。山岳でのエバンスのアシストは皆無だった。エバンスは常に単身でCSCの波状攻撃に耐えた。

CSCが組織力でマイヨジョーヌを奪い取るのは当然の結果だった。そして奪い取ったのはサストレではなく、若きフランク・シュレックだった。

「マイヨジョーヌを着ることがこんなに気持ちがいいとは。ピレネーのオタカムではたった1秒足りなかっただけで、ホテルにマイヨジョーヌを持ち帰れなかった。それは残念というよりもチームに申し訳ないという気持ちのほうが強かった」と語るシュレックは、さらにこう付け加えた。

「プラトーネボソで手に入れたこの1枚のジャージはチーム全員のものさ。今日一番強かった選手は弟のアンディに違いない。彼のペダリングは力がみなぎるもので、振り切られないようにみんなレッドゾーンに追い込まれた。そのおかげでボクたちは最後にアタックできた。エバンスは必死に着いてきたので、ラスト1kmで再びアタックした」

ラルプデュエズでライバルたちの激しいマークに遭ったマイヨジョーヌのフランク・シュレック

フランクからマイヨジョーヌがサストレの元へ

このCSCの組織力を巧みに操作するのが知将リースだ。

「サストレも素晴らし走りで揺さぶりをかけてくれた。彼自身の総合成績も上昇したことで、ボクたちは2つのカードを持ってゲームに挑むことができる」

しかしチームの組織力をもってしてもエバンスはしぶとく食い下がった。常にタイムロスを最小限に食い止め、アルプス2日目の第16ステージが終わっても8秒遅れの総合3位の位置にいた。前年の大会で23秒届かなかった悔しさがあり、エバンスも必死だった。

第16ステージでアシスト役のサストレと弟のアンディ・シュレックの強力な援護によってマイヨジョーヌを守ったものの、チームには焦燥感があった。

弟は新人賞ジャージを着用することになって、「これで兄弟そろってリーダージャージを着用できた。ボクたちは顔も身長も似ているので、陽動作戦も通じるかもしれないね」とフランクは笑顔を装ったが、心中は穏やかではなかったはずだ。

そして最大の勝負どころである第17ステージ。決戦の舞台はラルプデュエズ。2年前にフランク・シュレックがクネゴをふるい落として独走優勝した縁起のいいところだ。

沿道には小国ルクセンブルクの国旗が打ち振られ、50年ぶりの総合優勝が国家にもたらされる瞬間を見ようというファンが集まった。そんなルクセンブルクファンがこおりついた。

「サストレがアタック!」

「エバンスが追うが、その差は開く一方だ。シュレック兄弟は抑え役としてエバンスをマーク!」

サストレはこの時点で49秒遅れの総合4位にいた。急峻なラルプデュエズで決定的なアタックを決めれば、僅差で並ぶ上位3人は逆転が可能。そしてもしエバンスが追撃して追いついてきても、体力を温存していたシュレックがカウンターアタックを仕掛ける。CSCの作戦は「王手飛車取り」の戦略だ。

この戦略にはシュレックも同意している。

「オタカムでも最後の上りでアタックを連発させるのがCSCの作戦だった。あれはうまくいった。だからこの日もやろうとボクは発言した。完璧だったはずだ」

このままのタイム差で山岳ステージを終われば、最終日前日の個人タイムトライアルで確実なまでにエバンスに逆転される。

「マイヨジョーヌを確実なものにするためには、サストレをしてアタックさせるしかない。しかも逃げ切れるタイム差を稼ぐためにはラルプデュエズのふもとからアタックをかけることだ」

知将リースはこう計算していた。

こうしてラルプデュエズでアタックしたサストレは後続に2分03秒差をつける独走でステージ優勝するとともに、マイヨジョーヌを獲得した。

「ツール・ド・フランスに出場するには多くの犠牲や大変なことが待ち受けている。でもマイヨジョーヌを獲得した今となっては、すべてが素晴らしい記憶に置き換えられていく」

しかし2分15秒遅れの区間7位でゴールしたエバンスを決定的にふるい落とすことはできなかった。この差はじつに微妙だった。総合成績で4位に落ちたエバンスは1分34秒遅れ。最終日前日の個人タイムトライアルで再逆転も可能な数字だった。

23日間の大会は最終日前日となる7月26日、セリリ〜サンタマンモンロン間の53kmで個人タイムトライアルが開催された。エバンスの記録が驚くほど伸びなかったのに対し、サストレは区間12位の記録でマイヨジョーヌを守った。

「タイムトライアルでの勝因は3つ。精神面、チーム力、そしてフィジカル面だ」

第19ステージはシルバン・シャバネル(コフィディス)がジェレミー・ロワ(フランセーズデジュ)を制したc

上りだけでなくタイムトライアルでも実力を発揮

サストレがスペインチームを離れてリース監督に身を託したことで、単なる山岳スペシャリストではない実力を兼ね備えたことは重要だ。タイムトライアルのスペシャリストがズラリとそろう同チームにあって、サストレはマサチューセッツ工科大学の風洞実験室で効果的なフォルムを修得し、個人タイムトライアルのポテンシャルを急激に引き上げてきたのだ。

さらに同種目の世界チャンピオンであるチームメートのカンチェラーラが、タイムトライアルのコース情報をすべて報告。マイヨジョーヌに身を包んで最終走者としてスタートしたサストレは、情報戦でも勝利していたのである。

パリ・シャンゼリゼにゴールする最終日、ほとんどタイム差なしの大集団でゴールになだれ込み、サストレが初の総合優勝を達成した。スペイン勢は3年連続7人目、11回目の制覇。そして欧州サッカー、テニスのウィンブルドンと4週連続でスペイン勢がメジャー制覇するという快挙だった。

スペインの取材陣は、派手さはないが人格者であるサストレの勝利に納得の表情を浮かべた。33歳3カ月と5日での初優勝は歴代6番目に遅い記録でもある。

最終日となるパリ・シャンゼリゼの表彰式にはおしゃぶりをくわえて初勝利を飾ったときに生まれた息子のジェダイと、長女のクラウディアも登壇した。

「ツール・ド・フランス総合優勝はボクが描ける最大の夢だった。チーム一丸となってそれを成し遂げようとそれだけに集中した。チームのだれ一人として欠けたら夢はかなわなかったはずだ。ボクへのアシストぶりを考えると、モチベーションは最高に高まった。この勝利で伝統あるスポーツの歴史の1ページに名前を刻むことができた」

スペイン勢として3年連続のマイヨジョーヌ。

「そして最後にこの勝利を義理の兄であるホセマリア・ヒメネスに捧げたい」

ヒメネスはサストレの姉と結婚した元プロ選手。「インデュラインの後継者」と呼ばれた逸材ながら、重度のうつ病で選手生活の停止を余儀なくされ、若くして天界に散った肉親だった。家族、それと同様にチームの和を大事にするサストレが唯一顔を曇らせた瞬間だった。


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【ツール・ド・フランスリバイバル】
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フランスのトップ選手がロードトレーニングする意外な手段

フランスでは新型コロナウイルス感染拡大を抑えるために厳しい外出禁止令が敷かれ、すべての自転車選手が屋外でのトレーニングを禁止されているが、MTBとエクステラの世界チャンピオンであるクリストフ・ベタールは合法的な方法で現在もロードトレーニングしている。

薬局から託された薬を配達するクリストフ・ベタール(左) ©Pharmacie des Vosges / Facebook

フランス在住のスポーツ選手は現在、極めて困難な状況に置かれている。他国の大半と同様だが、体調を維持するために自宅でフィットネスやストレッチ、筋トレを行うしかない。多くの選手がウエブでこれまでに蓄積してきたコンディショニングのノウハウを共有し、閉じ込められた一般愛好家へのアドバイスをしている。新型コロナウイルスとの戦いを一丸となって勝ち取ろうという意思の表れだ。

フランス北東部のボージュを拠点とするベタールは独自のやり方で新型コロナウイルスに立ち向かっている。MTBではアマチュアカテゴリーで世界チャンピオンに。MTBを使ったトライアスロン競技のエクステラでも2015年に世界を制した。ロード選手としてもフランスの海外県マルチニックでナショナル選手権のタイムトライアルチャンピオンという肩書きもある。

ベタールは合法的に、援助を求めている人のためにロードトレーニングを続けている。山間部の自宅で孤立している住民に、薬局から依頼された薬と命をつなぐための食糧を背負って自転車で無料配達しているのである。起伏がちなボージュの山道を走るベタールの活動は口コミとSNSですぐに広まった。

自宅から出られない住民の需要を満たすために、マウンテンバイカーのグループ全体がベタールに加わった。

「私たちは運動能力があり、健康であり、困っている人々を助けたいと思っている」とベタール。孤立した人々を助けることに加えて、ベタールと彼のチームは住民の健康状態を医療関係に連絡するという重要な任務もこなしている。

●AIPSのニュースページ

黒田硫黄原作コミック「茄子」のペペが着るパオパオ発売

国内最大手の自転車ウエアメーカー、パールイズミは、黒田硫黄原作コミック「茄子」の登場人物ペペ ベンネヘリが所属するビールメーカーがスポンサーの自転車チーム「パオパオ」デザインのサイクルウエアを発売。

オーパス長袖ジャージ 1万4500円(税別)

半袖ジャージ、パンツ、ウインドブレーカー、サイクルキャップ、そしてアームカバーやシューズカバーなどのアクセサリー類まで幅広く展開する。

各商品は6月末以降にサイクルショップやスポーツ用品店などで販売を開始し、一部商品はパールイズミの限定オンラインショップで発送する。オンラインショップは4月中旬受注開始予定。

プリントジャージ 1万3000円(税別)
プリントパンツ 1万2000円(税別)
プリントサイクルキャップ 3800円(税別)
ウインドブレーカーベスト 1万2500円(税別)
エアスピード半袖ロードスーツ 3万2000円(税別)
エアロシューズカバー 5300円(税別)
グローブ 5300円(税別)
サコッシュ 3200円(税別)

●パールイズミのホームページ

【ツール・ド・フランスリバイバル】2007年はマイヨジョーヌ解雇! コンタドール初V

2007年の第94回ツール・ド・フランスは米国のディスカバリーチャンネルに所属していたアルベルト・コンタドール(スペイン)が初優勝した。アスタナのアレクサンドル・ビノクロフ(カザフスタン)、ラボバンクのミカエル・ラスムッセン(デンマーク)がレースを去るなかで、スペインの若き闘牛士(マタドール)がファンの心を魅了した。

マイヨジョーヌのラスムッセンをマークするコンタドール。エバンスはキツそうだ
ツール・ド・フランス2007

英国開幕の大会はビノクロフが優勝候補だった

英国ロンドンで開幕したツール・ド・フランスはタイムトライアルの世界チャンピオンであるファビアン・カンチェラーラ(スイス、CSC)がマイヨジョーヌを着用して動き始めた。アルカンシエルのワンピースジャージを身にまとったカンチェラーラは平均時速53.660km という猛スピードでロンドンの市街地を駆け抜けた。2位は13秒遅れでアスタナのアンドレアス・クレーデン(ドイツ)。同チームのエースであるビノクロフも30秒遅れの7位でゴールし、初優勝に向けて絶好のスタートを切った。

一方のラスムッセンは1分16秒遅れの区間166位。この時点ではエースナンバーをつけたメンショフのアシスト役をこなしながら、3年連続となる山岳ジャージに照準を合わせていたはずだった。大会前にチームが表明したこの大会のターゲットは、スプリンターのオスカル・フレイレ(スペイン)えによる複数のステージ優勝、ラスムッセンの山岳賞とトーマス・デッケル(オランダ)の新人賞獲得、そしてデニス・メンショフ(ロシア)が総合成績で上位に食い込むことだった。

ロンドン名物のダブルデッカーもツール・ド・フランスを歓迎

プロローグと第1ステージを英国で走ったツール・ド・フランスは、移動日なしでヨーロッパ大陸へ。第2ステージから6ステージまでは平坦コースでの戦いが続き、プレディクトール・ロットのロビー・マキュウェン(オーストラリア)やクイックステップのトム・ボーネン(ベルギー)らの有力スプリンターが連日のゴールをにぎわせた。ところがここで思わぬアクシデントが発生した。

優勝候補の筆頭だったビノクロフが、第5ステージの終盤で不意の落車で大けがを負ったのである。

平坦ステージの終盤はスプリント勝負に向けて高速化し、落車の危険性がつきまとう。それを回避するためには集団の前方に位置するのが鉄則で、歴代の総合優勝者はつねに序盤戦でも上位でゴールしている。

ツール・ド・フランスの前座として一般サイクリストがロンドンのど真ん中に集合

そしてビノクロフもそういった走りができる総合力を備えていたはずだが、チェーントラブルで思わぬ落車の憂き目にあったのだ。この大会の優勝候補の筆頭は両ヒザを裂傷するという重傷に顔をしかめた。すぐにクレーデンとアンドレイ・カシェチキン(カザフスタン)を除くチームメートが駆け寄り、隊列を組んでメイン集団への復帰を試みた。

ところがこのときメイン集団は、逃げていた先頭グループを吸収するためにハイペースでゴールに突き進んでいた。ビノクロフにとっては運がなかった。アスタナのアシストたちは力尽きて脱落。しかたなくビノクロフが単独で追ったが、高速化した集団には追いつくことはできず、1分20秒のタイムロスを背負う。前日まで50秒遅れの総合12位といい位置につけていたビノクロフだが、この日終わって2分10秒遅れの総合81位に陥落した。

アルプスで抜きん出てきたのは想定外のラスムッセン

そしてツール・ド・フランスは大会8日目、第7ステージにしてアルプスに突入した。例年なら序盤戦にはチームタイムトライアルか長めの個人タイムトライアルが組み込まれるが、2007年は通常のステージレースを続け、早い機会にアルプスを迎えたのだ。

この日はTモバイルのリーナス・ゲルデマン(ドイツ)を含む15人の第1集団が形成され、メイン集団との差を最大8分20秒まで開いた。ラスト14.5km地点を頂点とするコロンビエール峠で単独になったゲルデマンはそのままゴールまでの下りを独走し、初のステージ優勝と同時にマイヨジョーヌと新人賞のマイヨブランを獲得した。

タワーブリッジの途中で選手団が止まり、正式スタートを切った

翌第8ステージは2007年のキーポイントとなった1日だ。ラスムッセンら6人がレース中盤のロズラン峠でアタック。最後から2つ目の山岳、オートビユではラスムッセンら3人に。さらに最後のティーニュの上りでラスムッセンが単独になった。そしてラスムッセンは2位に2分47秒差をつけてステージ優勝。それと同時にマイヨジョーヌと山岳ジャージも獲得した。

後方に取り残された有力選手たちはそれぞれの戦いを展開。ここで脱落したのがなんとビノクロフだった。クレーデンにアシストされたビノクロフは4分29秒も遅れてゴール。明白になったのは総合成績で上位につけるクレーデンがエースではなく、あくまでもビノクロフが絶対的な存在であり続けたことだった。ビノクロフはアルプスの3日目も遅れ、これでだれもが総合優勝から脱落したと感じた。

純白の新人賞ジャージを着て走るコンタドール

第13ステージは、この年初めての長距離タイムトライアルだ。結果的にドーピング違反で失格となるビノクロフが最速タイムを記録するが、ここで浮上したのがエバンスとコンタドール。それとは反対に陥落したのがサウニエルドゥバルのイバン・マヨ(スペイン)、ケスデパーニュのアレハンドロ・バルベルデ(スペイン)、CSCのカルロス・サストレ(スペイン)だ。

2005年のツール・ド・フランスでは最後の個人タイムトライアルで何度も落車して大崩れしたラスムッセンはまずまずの好タイムでゴール。エバンスに1分差に詰め寄られたものの、納得のいく結果を手中にした。この日終わってラスムッセンの強さにだれもががく然としたはずだ。気がついてみれば「チキン」と呼ばれる、細身で長身のスキンヘッドが総合優勝に一番近いところにいたからである。

ツール・ド・フランス2007。ピレネー山脈を上るグルッペット

前代未聞! マイヨジョーヌの出走をチームが阻止

そして勝負はピレネーへと移っていく。1日目の山岳にして首位をねらえる好位置につけていたエバンスが遅れた。ラスムッセンと最後まで渡り合ってゴール勝負を制したコンタドールに対して、エバンスは1分52秒遅れでゴール。疲労したその表情に挽回する気力は感じられなかった。この日終わってラスムッセンと、それを2分23秒差で追うコンタドールの一騎打ちの様相を呈してきた。

ピレネー第2戦は、最後の山岳で4回もアタックしたコンタドールに、ラスムッセンが食らいついた。コンタドールはゴールまでの平坦路でも振り切ろうとパワーを振り絞ったが、この年のラスムッセンは想像以上に強かった。2人は同タイムでゴールした。

そして2人の一騎打ちは休日開けの最後の山岳ステージへ。戦いの舞台はオービスク峠だ。それぞれのアシストに援護された2人が雌雄を決着させようとしていた。満を持してコンタドールがアタック。しかしラスムッセンは離れなかった。最後はライプハイマー、ラスムッセン、コンタドールの戦いとなり、残り1kmでラスムッセンが単独に。区間2勝目のガッツポーズを挙げたときに、コンタドール逆転の夢を描いたスペインファンから落胆の声が上がった。

しかし2007年はその夜に事態が一転した。

コンコルド広場に選手たちがやってきた

ラボバンクがラスムッセンに出場停止処分を科したのだ。処分の理由は規則違反と発表されたが、同選手に薬物違反の疑いがあるためにチームが動いたとしか考えられない。

チーム広報のパトリック・クレルクはこう説明している。

「この日のゴール後のポーでチームはラスムッセンから事情聴取した。ラスムッセンは6月にメキシコにいると報告しておきながら、実際にはイタリアに滞在していた。このウソはチームの規律を破るのもで、ラスムッセンをこの大会から追放することに決定した」

主催者の最高権威であるクリスチャン・プリュドムはこう話す。

「彼はこのレースに参加すべきではなかった。明日の総合成績は実力を反映したものになるだろう。大切なことはツールを愛している人たちに正真正銘のツールを戻してあげることだ」

第17ステージ終了後、マイヨジョーヌはコンタドールの胸に。最終日前日の個人タイムトライアルで、猛追したエバンスをわずか 23秒差で逃げ切ったスペインの山岳スペシャリストは、24歳にしてこの大会を制することになる。史上初の5連覇を達成したスペインのミゲール・インデュラインの後継者と言われる男が、激震に襲われたレースを締めくくってくれた。

マイケル・ボーヘルトも家族と久しぶりの再会

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【ツール・ド・フランスリバイバル】
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【ツール・ド・フランスリバイバル】2006年は終了3日後に覇者失格

新型コロナウイルス感染拡大を防止するために外出制限などで不自由な生活を余儀なくされているサイクリングファンに、過去記事をお送りします。1988年からツール・ド・フランス現地入りしている私ですが、1996年まではサイクルスポーツ編集部員としての派遣。その後独立しましたが、当時はポジフィルム撮影。そして暗黒の7年間となったので、2006年からツール・ド・フランスをリバイバル

ガリビエ峠を上るマイヨジョーヌのランディス
ツール・ド・フランス2006

波乱の2006年。最大の衝撃はパリにゴールしたあとだった

米国のランス・アームストロングが2005年に7連覇(現在は薬物違反で全記録はく奪)を達成して引退。翌2006年は新たな王者を決めるレースとなるはずだったが、最終日のパリでマイヨジョーヌを獲得した米国のフロイド・ランディスが、その3日後に禁止薬物のテストステロンを使用したことでドーピング違反となり、総合優勝をはく奪された。

ランディスはアルプスで行われた3区間の初日、第15ステージで首位に躍り出たが、翌16ステージで10分以上も遅れて首位を陥落した。ところが第17ステージで130kmを独走し、再び首位が狙える位置まで浮上している。その後、得意とする個人タイムトライアルで逆転したランディスは、最終日のシャンゼリゼにマイヨジョーヌを着て凱旋した。

第17ステージの信じがたい逃げを疑問視する他チームの選手や関係者も多かった。そしてその日のゴール後に行われた検査でランディスは陽性となったのだ。開催93回目を数える当時の大会で、総合優勝者が失格なったのは初めてだった。

ランディスは2002年に当時のUSポスタル(のちのディスカバリーチャンネル)に移籍し、それからの3年間はアームストロングのアシスト役をつとめた。アームストロングの7連覇のうち3勝は、ランディスの存在があってのものだった。

ランディスの失格にともなって、57秒遅れの総合2位でゴールしたスペインのオスカル・ペレイロが繰り上がり優勝となる。ペレイロは総合優勝できるようなオールラウンダーではなかったが、誰もがつなぎの区間と思われた第13ステージで5人の逃げを成功させ、後続集団に29分57秒差をつけて一時的に首位に。そのとき稼いだ貯金があって総合2位でパリにゴールしていた。

ただし事実関係の調査や審議などがあり、ペレイロがマイヨジョーヌを手中にするのは大会終了から449日後、2007年10月だった。

この年の存在感と言ったらアレクサンドル・ビノクロフ。ツール・ド・フランス2006

超人的アタックを成功させた第17ステージで薬物使用

ツール・ド・フランスで初の総合優勝を達成したランディスが、禁止薬物のテストステロンを使用していたことが大会終了後に明らかになった。

ランディスが「ポジティブ」となったのは第17ステージ終了後のアンチドーピングコントロール。検査は2つの検体が採取されるが、パリの表彰式から3日後の7月26日に、UCI・国際自転車競技連合が「ツール・ド・フランスの禁止薬物検査で、検体の1つが陽性となった選手がいる」と発表した。

ラルプデュエズで独走勝利したフランク・シュレック

2つ目の検体が陽性にならないと氏名は公表されないが、この第1段階でUCIはルールに則って所属チームと当該国の自転車競技連盟に選手名を通知している。

第1報を知った各メディアは情報収集に追われ、裏付けを取られたものが外電として世界中に流された。翌日には日本の一般紙にも掲載されるほどのショッキングなニュースだった。

ダミアノ・クネゴ。ツール・ド・フランス2006

すぐに「陽性となった選手が出たのは7月20日に行われた第17ステージ」と一部で報じられた。この日のステージ優勝者とマイヨジョーヌ、ランダムに抽出された選手など、その対象はすぐに絞り込まれ、その段階ですでにランディスではないかという憶測が生まれた。誰もが彼の人間業とは思えない逃げを目の当たりにしていたからだ。

翌27日にフォナックチームが、「陽性となった選手はランディスである」と緊急発表した。ランディスはツール・ド・フランス後の顔見世興行レースをキャンセルし、すぐに自らの弁護団を結成。当初は、「長年のハードなトレーニングやいくつかの要因が相乗効果となって体内で生成されたもの」と主張した。

フィリップ・ジルベール。ツール・ド・フランス2006

チームの発表後にUCIは、パット・マクワイド会長の名のもとに「ランディスが陽性反応の当事者である」と認めたが、ランディス側は事態の争点をすり替えるためか、「この段階で名前が公表されたことは明らかなルール違反」として争っていく姿勢だ。

8月5日には2つ目の検体も陽性であることが判明。分析結果により外部から摂取されたことが明らかであることも実証された。フォナックチームは「チームの規律に違反した」として、即日のうちにランディスを解雇した

フィリッポ・ポッツァート。腕には元カノのキアラのタトゥーが

総合優勝者が失格となったのは93回の歴史の中で「当時として」初めて

ランディスはアルプスで行われた3区間のうち、第15ステージで首位に躍り出たが、翌16ステージで10分以上も遅れて首位を陥落した。ところが第17ステージで130kmを独走し、再び首位が狙える位置まで浮上している。その後、得意とする個人タイムトライアルで逆転したランディスは、最終日のシャンゼリゼにマイヨジョーヌを着て凱旋した。

ツール・ド・フランスの総合優勝者に薬物使用の疑いがかけられたことは過去にもある。1988年の優勝者、ペドロ・デルガドも期間中の検体から陽性反応が出たが、禁止薬物にリスト化される寸前のものだったことから失格を免れた。

今回は、第17ステージの信じがたい逃げを疑問視する他チームの選手や関係者も多かった。それだけあからさまな挙動は、ランディス自身が自暴自棄になったのではとさえ考えられた。UCIがランディスを要注意人物としてマークしたのは当然だ。

マイヨジョーヌのランディスがシャンゼリゼにフィニッシュしたのだが…

ツール・ド・フランスの主催者は、「もはやランディスを総合優勝者とは見なしていない」とコメントし、その後の決定をUCIに一任している。とはいえ、この年のツール・ド・フランスは開幕前にジロ・デ・イタリアとツール・ド・スイスの総合優勝者を排除し、両大会の顔に泥を塗っていた。それだけに今回はそのしっぺ返しという感もあったようだ。

ランディスの2つ目の検体が陽性となった後、ペレイロは「チーム全体の努力によって、ツール・ド・フランスの総合優勝に導かれたという気持ちがわいてきた」とだけコメントした。


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