【ツール・ド・フランスリバイバル】2015年はフルームがキンタナを振り切る

オランダのユトレヒトで開幕した第102回大会はスカイのクリストファー・フルーム(英国)が2年ぶり2度目の総合優勝を果たした。フルームは第3ステージでマイヨジョーヌを獲得するが、1日でエティックス・クイックステップのトニー・マルティン(ドイツ)に首位を明け渡した。そのマルティンが第6ステージで鎖骨骨折して、再び首位に。最後は新人王のナイロ・キンタナ(コロンビア、モビスター)に肉薄されたが、逃げ切った。

第12ステージ、プラトードベイユを上るフルーム、キンタナ、コンタドール
ツール・ド・フランス2015

2年ぶりの優勝をねらうフルームが大会3日目に首位へ

大会3日目の第3ステージ、壁のように立ちはだかるユイの激坂にゴールしたレースは、カチューシャのホアキン・ロドリゲス(スペイン)がフルームを同タイムで制して5年ぶり2度目の優勝を果たした。

前日に総合1位となったファビアン・カンチェラーラ(スイス、トレックファクトリー)はレース中盤に落車。その痛みのため大きく遅れてゴールしたため、フルームが大会3日目にして首位に立った。

広告キャラバン隊はいつも元気いっぱい

前年の覇者ビンチェンツォ・ニーバリ(イタリア、アスタナ)やキンタナは11秒遅れでゴールしたが、ティンコフ・サクソのアルベルト・コンタドール(スペイン)はさらに7秒遅れた。コンタドールは総合成績でフルームに36秒差をつけられてその後を戦うことになった。

オランダで2日間を走ったレースは、この日ベルギーに移動して、レース終盤にはいよいよアップダウンが出現する。山岳賞争いも大会3日目にして始まるのだが、その勝負どころを目指す中盤に思わぬアクシデントが発生した。わずかな下り坂で大集団が高速走行をしていたときに落車が発生。この中にマイヨジョーヌを着るカンチェラーラがいた。

ユトレヒトはミッフィーちゃんの生まれ故郷だ

ツール・ド・フランスでは伝統としてマイヨジョーヌが不可避のアクシデントで遅れたときは、他選手がレースを中断して復帰するまで待つという慣習がある。もちろんルールとしてあるわけではない。1世紀以上も続くこの大会は、いわばサーカスのような庶民の娯楽であり、いたるところに人間的な感情が入り込む。国際ルールというのは後付けで規定されたものであり、集団を仕切る選手の親分が全員に「止まれ!」と言ったら止まるのである。

第2ステージはオランダらしい景色の中を突っ走った

今回の場合はその親分であるカンチェラーラが落車したので、主催者の最高権威プリュドムが全選手を止めた。この日の重要な部分はコース終盤であり、「それまでは一緒に行こうな」という自転車レースならではの判断基準もカンチェラーラを待った理由だった。

第3ステージはユイの丘にゴールが設定された

仕切り直しとなったレースは最後のユイの激坂に向けて有力選手たちが激しい戦いを見せた。ロドリゲスはこういった激坂を無酸素運動に近い運動能力で走れるタイプ。最後まで争ったフルームを突き放して優勝するのだが、5年前の勝利も激坂にゴールするコースで、そのときはコンタドールを振り切っている。

フルームは他のライバルに差をつけたことで、大会3日目にしてマイヨジョーヌを獲得した。

表彰式のアテンド。左から3人目がツール・ド・フランス解説者として活躍しているマリアン・ルス

繰り上がりマイヨジョーヌをフルームは拒否

ノルマンディー地方の平たん路で争われた第7ステージはエティックス・クイックステップのマーク・カベンディッシュ(英国)が大集団のゴール勝負を制して優勝。母国で開幕した2014年は第1ステージのゴール勝負で落車骨折していて、2年ぶり26回目の区間勝利を飾った。

前日はマイヨジョーヌを着るチームメートのマルティンが、カベンディッシュのアシスト時に落車。左鎖骨骨折が判明し、この日は出走できなかった。繰り上がりで首位となったのはフルームだが、「不運に見舞われたマルティンに敬意を表したい」とマイヨジョーヌの着用を拒否。この日はマイヨジョーヌ不在のレースとなった。

第6ステージで鎖骨骨折したトニー・マルティンはマイヨジョーヌのままリタイア

有力選手はタイム差なしの同一集団でゴールし、フルームが首位になった。

フルームはその後、終盤の山岳ステージで上り坂を得意とするキンタナに何度もアタックされ、青息吐息ながらなんとか逃げ切り、2年ぶり3度目の総合優勝を達成した。最終的なタイム差は1分12秒だ。

フルームは前年、第5ステージで落車骨折して涙ながらにリタイアしている。この年はは圧倒的な総合力に加え、鉄壁のアシスト陣に援護され、リーダージャージーのマイヨジョーヌを16日間着用。記録だけを見れば圧勝だが、薄氷の勝利だった。

オランダで開幕した大会は2日目に総合優勝争いで大きなポイントがあった。この日はオランダ特有の風と強い雨に見舞われて集団が分断。フルームはトップと同タイムの集団でゴールしたが、第2集団に取り残されたキンタナは1分28秒も遅れてしまった。南米で生まれ、スペインを拠点として走る選手は過酷な条件下となりがちなオランダやベルギーのレースに参加することが少なく、経験不足が露呈した。

第11ステージのツールマレー峠

中盤のピレネーを終えてフルームはキンタナに3分10秒の差をつけていたが、その貯金は最後の2日間の山岳で大きく失った。大会中盤から「マークするのはキンタナしかない」と公言していたフルームだが、その粘り強さは驚異だったのだ。

「最後の山岳であるラルプデュエズを上っていてボクの頭の中にはいろんな感慨が浮かんでいた。いつもボクのそばにはチームメートがいてくれた。みんながボクのマイヨジョーヌを一生懸命守ってくれた。最後は力を合わせてナイロ・キンタナの攻撃をしのげばよかった」とフルーム。

「そして家族の存在があってこそ、ハードなトレーニングをこなし、ボクの背中を後押ししてくれた。最終日前日の最後の山岳ステージはわずか110kmだけど、ボクには平地の300kmに感じた。ツール・ド・フランスに再び勝てるなんて信じられない気分だ」

上空から見ると「クツヒモ」のように見えるラセドモンベルニエ

そしてキンタナ。マイヨジョーヌをつかむにはまだなにかが足らない

総合2位はキンタナ。前年は同大会を欠場し、ジロ・デ・イタリアに照準を合わせて優勝。総合2位と新人賞の獲得は2年前と同様。

「全力を尽くして届かなかったので後悔はしていないが、マイヨジョーヌをつかむにはまだなにかが足らないということだね。何年かかってもボクの夢を実現するために、努力を惜しまない」

2人の男の熱き走りが久しぶりに見応えのあるレースにしてくれた。

キング・オブ・スプリンターの称号であるポイント賞は4年連続でティンコフ・サクソのペテル・サガン(スロバキア)が獲得。山岳賞はフルームが初受賞した。

パリでマイヨジョーヌを着たフルーム

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ツール・ド・フランス、ル・マン、全仏など延期日程確定

新型コロナウイルス感染拡大でフランスの大型スポーツイベントを中心に国を挙げての大きな行事が延期を余儀なくされているが、収束に向けてわずかな兆しが見えてきたことから続々と再調整された日程が発表されている。 2020年4月24日時点。

© ASO
  • エヴィアン選手権(女子ゴルフ)
    8月6~9日に延期(当初予定は7月23~26日)
    www.evianchampionship.com/
  • ツール・ド・フランス
    8月29日~9月30日に延期(当初予定は6月27日~7月19日)
    www.letour.fr
  • ル・マン24時間耐久レース
    9月19日~20日に延期(当初予定は6月13日~14日)
    www.lemans.org
  • ローラン・ガロス全仏オープン(テニス)
    9月20日~10月4日に延期 (当初予定は5月18日~6月7日)
    www.rolandgarros.com
  • パリ・マラソン
    10月18日(当初予定は4月5日) www.parismarathon.com
  • マルセイユマラソン
    11月22日に延期(当初予定は4月12日)
    www.runinmarseille.com
パリにあるローラン・ガロス競技場 ©Atout France/Nathalie Baetens

文化イベント

  • カンヌ映画祭
    2020年はマーケット部門に絞り6月22~26日開催(当初予定は5月12~23日)
    www.festival-cannes.com

【ツール・ド・フランスリバイバル】2014年はニーバリ初優勝

全体的に天候が荒れ気味の2014年ツール・ド・フランスは、アクシデントに巻き込まれた選手が相次いでレースを去っていった。同じ条件でありながらも、堅実に走り続けた実力者が栄冠のゴールにたどり着いた。総合優勝のビンチェンツォ・ニーバリ(イタリア、アスタナ)もヨーロッパカーの新城幸也も、まさに地に足をつけた自然体のスタイルだった。

第14ステージ、イゾアール峠を下るマイヨジョーヌのニーバリ

第5ステージの石畳区間でニーバリは早くも勝負に出た

ビンチェンツォ・ニーバリ。全21区間のうちマイヨジョーヌを着用したのはなんと19日だ。勝負どころの山岳では1日だけティンコフ・サクソのアルベルト・コンタドール(スペイン)に3秒負けたが、あとはライバルとのタイム差を広げるばかり。気がつけば前年の覇者クリストファー・フルーム(英国、スカイ)、3度目の優勝をねらったコンタドールらのライバルが不意の落車で大きく傷つき、レースを断念してチームカーに乗り込んでしまった。

2014ツール・ド・フランス

地元イタリアのリクイガス・キャノンデールに所属していた2年前、ニーバリはジロ・デ・イタリアをパスしてツール・ド・フランスに乗り込んだ。しかしブラッドリー・ウィギンスとそのアシスト役だったフルームに山岳ステージで封じ込まれた。イタリア自転車界の育成システムに乗り頭角を現したニーバリにとっても、かなわぬ敵が君臨することを初めて知る。

その翌年に心機一転。カザフスタンのアスタナに電撃移籍した。現役選手を引退して同チームの監督に就任することになったアレクサンドル・ヴィノクロフが次期エースとしてニーバリ獲得に動いたのだ。カザフスタン選手だけではツール・ド・フランスに勝てないと考えたからだ。

英国開幕のこの年、第1ステージのゴールスプリントで地元マーク・カベンディッシュがまさかの鎖骨骨折
第1ステージで優勝してマイヨジョーヌを獲得したマルセル・キッテル。第2ステージで脱落しても笑顔で声援に応える

ニーバリの天性に、怨念も含むヴィノクロフの冷静な判断力が加わって飛躍的にレベルアップを遂げたのは周知の事実だ。2013年にジロ・デ・イタリア総合優勝。そしてこのシーズンは連覇のかかるジロ・デ・イタリアをパスしていよいよツール・ド・フランスに照準を合わせて乗り込んできた。

優勝争いのキーとなったのは「北の地獄」と呼ばれる石畳区間を走った第5ステージだった。石畳はレース後半に設定されていたが、前日に右手首を痛めていたフルームが前半の舗装路で2度も落車。手首を骨折してリタイアした。そして石畳区間に入るとニーバリがアシストとともにアタックし、コンタドールに大差をつけた。結果的にはこれがコンタドールにプレッシャーを与えることになり、第10ステージの右足骨折でコンタドールも消えていった。

第9ステージでトニー・ガロパンがマイヨジョーヌ。敢闘賞のアテンドガール、恋人のマリオン・ルスと

結果的に総合2位とは7分以上の大差。これは1987年にヤン・ウルリッヒが初優勝したときのタイム差を超える圧勝だったが、全区間でニーバリにブレーキがなかったこと、そしてアスタナチームの総合力が抜群に高かったことが要因だ。

第14ステージでラファウ・マイカが優勝。さらに第17ステージでも優勝し、山岳王に

アスタナはすべてのアタックに対して大逃げを容認することがなく、メイン集団の先頭に立ってコントロールした。山岳の上りでもジロ・デ・イタリア優勝経験のあるスカルポーニらがけん引役を務めた。ニーバリは最後の山岳で温存したパワーを発揮するだけでよかった。ニーバリがアタックしても、総合2位ねらいのティボー・ピノ(エフデジュポワンエフエル)やジャンクリストフ・ペロー(AG2Rラモンディアール)のフランス勢は追走しなかった。

29歳にしてグランツールを全制覇したニーバリ。次なる目標は世界選手権。イタリアチームのエースとして6年ぶりのアルカンシエル獲得に挑むという。

左から新人賞のティボー・ピノ、総合優勝のニーバリ、ポイント賞のペテル・サガン、山岳賞のマイカ

世界最高峰のこのレースを代表する選手になった新城

新城幸也は総合65位で、自身が2012年に記録した84位を上回る日本選手の最上位記録を更新。5度の出場ですべて完走。ジロ・デ・イタリアの2回を加えるとグランツール7回出場で全完走という安定感を見せた。

第5ステージ、雨の石畳を走るトマ・ボクレールと新城幸也

2014年の新城は安心感があったし、実際に休息日に訪ねてみてもこれまで以上にリラックスしていた。初出場となる2009年は集団スタートの初日に区間5位になったことが結果的に重圧となり、精神的に追い詰められた状態での戦いを余儀なくされた。しかし、出場回数を増すごとに新城自身が「一番楽しみにしているレース」というこの大会でどう走ったらいいのかを知ることになる。

この年は、記録の上では派手な数字はないが、23日間を通して存在感を見せつけた。アルプスやピレネーの山岳ステージで一度もグルッペットでゴールしなかったのは、ツール・ド・フランスの走り方を知り尽くしている証拠だ。

ピレネーの第18ステージでも新城幸也はエースのボクレールを援護した

安定感のある走りは視野の広さを提供する。そのステージのどこに知り合いのカメラマンがいたか。日の丸を掲げている人がどこで応援してくれたか。すべてがよく見えている。世界最高峰のレースだからとムキにならず、自然体でなにごともなかったかのようにパリ・シャンゼリゼにゴールする。区間勝利はなかったが、その実力は世界レベルに上り詰めた。

フランス南西部は一面のヒマワリ畑が広がる

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【ツール・ド・フランスリバイバル】2013年の100回大会でフルーム初優勝

第100回ツール・ド・フランスはスカイのクリストファー・フルーム(英国)の圧勝だった。窮地があったとすればハンガーノックになったラルプデュエズで、そのゴール後に、「好感度を高めるためにわざと?」という質問さえ飛び出るほどで、フルームはキューピーのような屈託のない笑顔で「そんなことはないよ」と返すのだった。

最後の山岳でも上りのスペシャリストを逃がすことなくフルームがマイヨジョーヌを死守

日本でプロ初勝利を挙げたフルームが記念大会を制覇

ホテルでの立ち話やゴール直後のフランス語によるインタビューを聞く限りは好青年だ。そのフランス語はたどたどしくも一生懸命で、「うん、だからそうなんだよね」と司会者も助け船を出したくなる。

ツール・ド・フランスは100回大会で初めてコルシカ島を走った

日本のファンにしてみれば、プロ初勝利は2007年のツアー・オブ・ジャパン伊豆ステージで、親近感もあるだろう。もっと言及するとそのレースでスタート直後に飛び出したのがNIPPOに所属していた新城幸也。フルームは終盤に新城を逆転し、それでも新城は執拗に追撃をかけるがフルームに逃げ切られているのだ。

コルシカ島に日本チャンピオンジャージで姿を現した新城幸也

2012年の最終日前日、ボクはスカイチームと同宿で、エースのブラッドリー・ウィギンスがマイヨジョーヌを確実にした祝宴の席で、フルームとウィギンスの席がずいぶん離れていることを目撃した。最終日の朝には、ボクの部屋の前でカチューシャの監督がフルームを呼び止めるのだが、「ちょっと話があるので部屋に来ないか」という内緒話がつつ抜けだった。

わずか10分でフルームは部屋から出て行ったので、移籍には至らないなと推測できたが、朝食の会場ではボクの立ち話に付き合ってくれ、「来年もスカイでがんばるよ!」とさわやかな口調で話してくれたのだった。

ラルプデュエズのオランダ人コーナー

そういった人当たりのよさを見せながらも、ロードバイクにまたがると別の側面がかいま見られる。2012年は遅れがちなウィギンスを振り返りながら「ついてこられないの?」とばかりの手振り。2013年も下りコーナーで制御不能に陥ったコンタドールに接触しかかって、「無謀なことはするべきじゃない」と内面をチラリと露呈させた。

勝てるところは全部持っていくという強い執念も感じる。ケニアのナイロビで生まれ、南アフリカで育ったという特異な境遇をもつフルームが、どんな考えを秘めてこのスポーツに没頭しているのか。2連覇がかかる2014年の大会とともに興味深いところなのだ。

最終日前日の最後の山岳でキンタナが区間初勝利
最終日の午前中、パリへのフライトでくつろぐフルームとチームメートのリッチー・ポート

日本チャンピオンの新城幸也が再びアタックを敢行

全日本チャンピオンの新城も存在感を示した。日本で国際映像を見ているとたまにしか登場しない歯がゆさもあっただろうが、現地ではマイヨジョーヌなどの実力者に劣らない人気ぶりだった。純白を基調とした日本のチャンピオンジャージは大集団の中でも際立つもので、沿道の地元ファンから「シャンピオンデュジャポン!」「ユキヤ・アラシロ!」と至るところで歓声がわき起こった。

4賞ジャージ。右からポイント賞のペテル・サガン、総合優勝のフルーム、山岳賞のキンタナ(新人賞も受賞)

目の肥えた欧州ファンは、ひいき選手が勝つところを見に来るわけじゃない。その選手のファイトが目の当たりにしたいんだ。ボクがツール・ド・フランス取材を始めた25年前、まずはこう教えられた。その言葉は今も普遍の真理で、新城がこれほどまでの気概をもって走る雄姿をこれまで以上に頼もしく感じた。

目標としていた優勝ができなかったのは、だれよりも自身が一番悔しいはず。落車によって強打した肋骨2本にヒビが入っていても、笑顔でそれを押し隠してスタートしていく。「シャンゼリゼの石畳は肋骨によくない」と思わずもらすのだが、苦悩や努力を決して人には見せないのが新城なのかも。

ツール・ド・フランスの最終日はパリ!

ボクたちは新城が勝つところが見たいんじゃないんだ(見たいけど)…。そのガッツが見たいんだからこの年も大満足だ。

ボクのツール・ド・フランス取材も25年。劇的に変わったのはインターネットの普及による報道の高速化。科学的トレーニングを導入してコンディショニングして乗り込む選手。チームバスに代表される快適なインフラの整備。カーボンコンポジットはあの時代からあったが、スプロケットは7段から11段へ(当時)。おそらくこういった有形なアイテムは飛躍的に進化した。

第5ステージで新城幸也がアタック。一時はバーチャルマイヨジョーヌとなった

変わっていないこともある。沿道で待ち構える観客の笑顔。ラルプデュエズの坂道のキツさ。パリにたどり着くことなくリタイアしていく選手の無念。そして夏のバカンスというワクワク感とともにやってくる一大スペクタクル。

第100回大会とて、あまり肩肘を張ることなく普通にやってしまうのが伝統の重み。きっと100年後も、機材の進化はあれどみんなのワクワク感は変わらないんじゃないかな。

第5ステージでアタックした新城幸也。ゴール後にて

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【ツール・ド・フランスリバイバル】2012年、ウィギンスが英国勢初制覇

2012ツール・ド・フランスはスカイのブラッドリー・ウィギンスが総合優勝し、英国に初めてのマイヨジョーヌをもたらした。2年ぶり3度目の出場を果たした新城幸也は第4ステージで敢闘賞を獲得。3回目の完走を2時間29分13秒遅れの84位という日本人歴代最高位で決めた。

東京中日スポーツの一面に新城幸也の記事が

遅れ気味のウィギンスにいらだちを見せたフルーム

薬物使用によるコンタドールの出場停止、アンディ・シュレックの欠場により、マイヨジョーヌ争いは開幕時点で絞り込まれていた。連覇をねらうオーストラリアのカデル・エバンス、総合力のあるウィギンス、ジロ・デ・イタリアをパスしてこの大会に照準を合わせてきたイタリアのビンチェンツォ・ニーバリだ。

優勝争いが動いたのは本格的な山岳初日となる第7ステージ。この時点で総合2位につけていたウィギンスは、アシスト役のクリストファー・フルームの援護を受けて最後の坂に。しかしライバルであるエバンスとニーバリも離れなかった。ところが献身的なアシストをこなしたフルームがゴール手前300mで抜け出して初優勝。ウィギンスはマイヨジョーヌを獲得するのだが、エバンスとともにそのスパートについていけなかった。

ブラッドリー・ウィギンスが英国勢として初めてマイヨジョーヌを手中にした

ある意味で大会を象徴するようなシーンだった。山岳ではアシスト役のフルームのほうがウィギンスより強かったと言える。フルームは物腰のおだやかな、人のよさそうな普段の性格だが、ロードバイクに乗ると意外と野心的な部分をさらけ出し、その後もウィギンスのアシストをこなしながらも区間勝利へのこだわりをむき出しにした。

マイヨジョーヌ争いはウィギンスが2回のタイムトライアルで圧勝し、エバンスが山岳ステージで陥落。フルームから遅れ気味のウィギンスもニーバリのアタックを封じ込めたかたちで決着を迎える。こうしてウィギンスは第7ステージで手にしたマイヨジョーヌを一度も失うことなく、フルームに手渡すこともなくパリ・シャンゼリゼにゴールした。

連日の果敢な走りで人気者となった新城幸也

第99回大会の話題を2つ挙げるとすれば、英国選手の初制覇と新城の活躍だろう。それは現地プレスセンターや沿道の総意といっても過言ではなく、それだけ英国スカイチームの完勝ぶり、そして新城の連日のアタックは注目された。

プロローグを制したカンチェラーラが大会7日目までマイヨジョーヌを着用した。ウィギンスはずっと7秒差の2位につけていた。優勝争いが動いたのは第7ステージ。最後に激坂が待ち構える本格的な山岳初日だった。

ウィギンスのアシストだったフルームだが、ラプランシュデベルフィーユでツール・ド・フランス初優勝

この日、ウィギンスはアシスト役のフルームの援護を受けて、最後の坂に。ライバルであるエバンスとニーバリも離れない。すでにマイヨジョーヌのカンチェラーラは脱落していて、そのままタイム差なしでゴールすればウィギンスがマイヨジョーヌを獲得する。

フルームがツール・ド・フランスで初めてステージ優勝したのがこの日だった。エバンスとウィギンスはそのスパートについていけず、2秒遅れでゴール。ニーバリは2人からさらに5秒遅れた。

ブラッドリー・ウィギンスは個人タイムトライアルでパワーを見せつけた

「マイヨジョーヌの行方はすでに決しているのだから、そんなに速く走る必要はないんだよ」と、先を急ぐフルームから遅れがちだったことを弁明したウィギンス。

「エースのプレッシャーがないからうまく走れたのだと思う。もっと経験を積んでこのチームで夢をつかみたい」と優等生的なコメントを発するフルーム。両者の心中に秘められた本音を想像するとじつに2012年の大会は興味深い。

ペテル・サガンがツール・ド・フランス初優勝を含む3勝を挙げ、初めてマイヨベールを獲得した
最終日の朝、スカイチームのスタッフがおそろいのTシャツで記念撮影

新城幸也が日本勢として初めて表彰台に登壇

新城の存在感も現地ではウィギンスに負けていなかった。豪州の草分け的元選手、フィル・アンダーソンは「毎日アタックしていた日本選手がいたね。彼は来年期待できるぞ」と語った。フランステレビジョンは「ユキヤ・アラシロは今年、フランス人が一番よく知る日本人になるだろう」とコメントした。

まさに獅子奮迅の大活躍だった。ボクレールのアシスト役として走りながらも第4ステージで敢闘賞。第18ステージでゴール手前までトップ集団で激しく戦った。

3回目の完走を日本人歴代最高位というおまけ付きで決めて、コンコルド広場で日本の取材陣に囲まれて最後のインタビューをしているとき、総監督のジャンルネ・ベルノードーがタイミングを計ってその輪に加わってきた。

第4ステージで新城幸也は敢闘賞を獲得した

「どうだ、見たか。今年の活躍を。来年はうちのチームで初めてツール・ド・フランスで勝つ日本選手になる」

他チームの引き抜きに遭わないように取材陣を意識して語った言葉だ。

英国のベテランカメラマンが「ツール・ド・フランス取材を初めてかれこれ何十年で、ようやく自国選手が総合優勝したのだから感慨深い」とつぶやき、新たな時代の到来を歓迎した。日本自転車界も風が変わろうとしている。日本選手が総合優勝を争うようになるのは果たしていつ?

ヨーロッパカーの新城幸也が2年ぶり3度目の完走を果たした

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ツール・ド・フランス歴代記録集(1903年から2023年まで)

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●個人総合優勝回数
5勝
ジャック・アンクティル(フランス)1957,1961,1962,1963,1964
エディ・メルクス(ベルギー)1969,1970,1971,1972,1974
ベルナール・イノー(フランス)1978,1979,1981,1982,1985
ミゲール・インデュライン(スペイン)1991,1992,1993,1994,1995
4勝
クリストファー・フルーム(英国)2013,2015,2016,2017
3勝
フィリップ・ティス(ベルギー)1913,1914,1920
ルイゾン・ボベ(フランス)1953,1954,1955
グレッグ・レモン(米国)1986,1989,1990

●マイヨジョーヌ着用日数
エディ・メルクス(ベルギー)111*
ベルナール・イノー(フランス)79*
ミゲール・インデュライン(スペイン)60
クリストファー・フルーム(英国)59
ジャック・アンクティル(フランス)52*
*ドゥミタップ(午前と午後にそれぞれ行われる半ステージ)を含む

●ステージ優勝回数
エディ・メルクス(ベルギー)34
マーク・カベンディッシュ(英国)34
ベルナール・イノー(フランス):28
アンドレ・ルデュック(フランス):25

●1大会のステージ優勝回数
シャルル・ペリシエ(フランス、1930)8
エディ・メルクス(ベルギー、1970・1974)8
フレディ・マルテンス(ベルギー、1976)8

●ポディウム(総合1位から3位までの表彰台)
レイモン・プリドール(フランス)8

●参加回数
シルバン・シャバネル(フランス)18
ジョージ・ヒンカピー(米国)17
イェンス・フォイクト(ドイツ)17

●ポイント賞
ペテル・サガン(スロバキア)7

●山岳賞
リシャール・ビランク(フランス)7

●新人賞
タデイ・ポガチャル(スロベニア)4
ヤン・ウルリッヒ(ドイツ)3
アンディ・シュレック(ルクセンブルク)3

●国籍別の総合優勝回数
フランス:36勝
ベルギー:18勝
スペイン:12勝
イタリア:10勝
英国:6勝
ルクセンブルク:5勝
米国:3勝
デンマーク:3勝
オランダ:2勝
スイス:2勝
スロベニア:2勝
ドイツ:1勝
オーストラリア:1勝
コロンビア:1勝
アイルランド:1勝

●優勝者と2位の最小タイム差
8秒:1989年(優勝グレッグ・レモン、2位ローラン・フィニョン)

●優勝者と2位の最大タイム差
2時間49分21秒:1903年(優勝モーリス・ガラン、2位ルシアン・ポチエ)

●最年長優勝
フィルマン・ランボー(ベルギー、1922):36歳

●最年少優勝
アンリ・コルネ(フランス、1904):20歳
第二次世界大戦後の最年少優勝はタデイ・ポガチャル(スロベニア、2020):21歳

●メディア
取材メディア数:500
記者・カメラマン:45カ国・1800人
テレビ放送:190カ国、100系列局、うち生中継60局
総放送時間:7000時間
公式サイト:1700万ユニークユーザー、2億2200万ページビュー
SNS(Facebook・ツイッター・インスタグラム・YouTube):7500万フォロワー
モバイルアプリ230万ダウンロード
映像視聴者7340万人


ツール・ド・フランスの5勝クラブ

ツール・ド・フランス総合優勝の歴代最多記録は5勝。ジャック・アンクティル(フランス)。エディ・メルクス(ベルギー)。ベルナール・イノー(フランス)。そしてミゲール・インデュライン(スペイン)。「クラブサンク」と呼ばれる「5勝クラブ」への会員登録が許されたのは100年以上の歴史の中でこの4人しかいない。もちろんそんなクラブは実在せず、紙面上で担当記者が好んで使う表現。

ジャック・アンクティル

山岳ステージでヒルクライムのスペシャリストと渡り合い、タイムトライアルでライバルをねじ伏せる。勝利の方程式を確立させたのがフランスのジャック・アンクティルだった。タイムトライアルの伝統レース、グランプリ・デ・ナシオンで9連覇するなど、あらゆるタイムトライアルでトップレコードを記録した。アンクティルのツール5勝はまさにタイムトライアルの勝利によるものだった。深いクラウチングスタイル、華麗なペダリング。近代レースの幕開けを率先したレーサーで、史上初の5勝を記録した。変速機にこだわり、フランスメーカーのサンプレックスから晩年はカンパニョーロに乗り換えた。変速メカの重要性がクローズアップし、機材としての進化が推進されたのもアンクティルがいたからである。


エディ・メルクス

2019年、ブリュッセルの表彰式で大観衆に手を振るメルクス ©ASO Olivier CHABE

ベルギーのエディ・メルクスは自転車競技の歴史の中でも伝説的な選手で、20世紀を代表するスポーツ選手として、自転車選手でただ一人選出された。生涯勝利記録は437勝。ジロ・デ・イタリアとツール・ド・フランスの両方で大会最多記録となる5勝をマーク。ツール・ド・フランスでは、1970年と1974年にステージ8勝を挙げている。
その勝ち方は圧倒的だった。ワンデーレースのクラシックもステージレースも根こそぎ勝ちまくり、その戦いぶりから「カンニバル=人食い鬼」とも呼ばれた。ツール・ド・フランスでも総合1位のマイヨジョーヌを着ながら、パリのゴールスプリントを制したこともある。平たんステージで逃げを決め、山岳でも独走する。マイヨジョーヌを着用した日数はなんと96日(午前と午後に開催されたドゥミエタップを考慮せず)。決して破られることのない不滅の記録の持ち主だ
現在は自らの名前を冠したフレーム製作会社を経営し、ロット・ドモチームが使用している。息子のアクセル・メルクスは現役選手として活躍中。


ベルナール・イノー

パリ〜ルーベを走るベルナール・イノー

ツール・ド・フランスで5勝をあげた選手の中でも最も荒々しく、好戦的なレーサーがイノーだ。1954年11月14日生まれ、フランスのブルターニュ出身ジタンチームに所属していた1978年にツール初優勝。以来ツールは通算5勝、ジロ・デ・イタリア3勝、ヴェルタ・エスパーニャ2勝、世界選手権ロード優勝など、あらゆるメジャーレースを総なめにした実力者。
ニックネームは「ブルターニュの穴グマ」。ツールでは、このイノーの1985年優勝を最後に地元フランス勢は総合優勝から遠ざかっている。現役引退後はツール主催者の専門委員に就任。今でもレース会場には欠かせぬ存在となっている。
イノーと言えばジャージの胸元を引き裂いて走るほど荒々しい性格だったが、それと同時に最新鋭機材を次々と導入し、自転車界に革命をもたらせたことでも知られた。1980年代に入ってすぐに、涙滴断面のエアロチューブを駆使し、その後のエアロブームを巻き起こしたのもイノーだった。このフレームに装備されているルックのビンディングペダルだってその代表だ。100年の歴史があったトウクリップをわずか数年で引退に追い込んでしまった功罪の首謀者だ。
絶対的な自負心を発散し、エースとアシストという徒弟制度を確立させたイノー。最後の総合優勝の時、落車で鼻骨骨折するアクシデントもあって、チーム内の若きグレッグ・レモンに優勝を譲られた形で終幕した。そのときに「来年はおまえに譲るから」という話があったはずである。


ミゲール・インデュライン

スペインの無敵艦隊ミゲール・インデュライン

スペインの太陽王と呼ばれたミゲール・インデュラインは、スペイン北部のバスク地方の出身。1984年にイバネストチームの前身である、レイノルズでプロデビュー。先輩格のペドロ・デルガドのアシスト生活が長く、頭角を現したのは20代の最後の方だ。身長188cmと大柄だが、山岳ステージに強く、ヒルクライマーと互角に渡り合い、得意のタイムトライアルで圧勝する。まさにアームストロングと同じ勝ちパターンで勝利を重ねていった。
性格は温厚で、誰からも愛され、頭脳的な走りもできる。アームストロングさえも、「ミゲールのような、あんな偉大な選手になりたい」と言わしめたほどの完全無欠なレーサーだった。ツール・ド・フランスでは鉄壁の走りで5連覇を達成したが、1996年にアルプスで脱落し、デンマークのビャルネ・リースに連覇を阻止された。引退も早く、そのシーズンを最後に現役生活に終止符を打った。

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