聖地を目指す巡礼者たち…この旅はツール・ド・フランス発案の原点だった

フランス中南部のル・ピュイアンブレは2017ツール・ド・フランス第15ステージのゴール、休息日、第16ステージのスタートと3日間もツール・ド・フランスを迎えてお祭り騒ぎだった。この町は歩きにくい石畳の道路が特徴だが、フランス中央部から敬虔なキリスト教徒が集まる。フランス国内に4つある巡礼路の出発地点だからだ。

ル・ピュイアンブレの聖母マリア像の胎内から奇岩の上に立つ教会を望む

エルサレム、バチカンとともにキリスト教の三大巡礼地として知られるスペインのサンチャゴデコンポステーラに向かう出発点。巡礼者はこの地からスペイン北西部にある聖地を目指す。Googleマップで調べたら距離1267km。1日25km歩くとして50日かかる。といっても最近は途中の一部分を歩いたり、あるいは徒歩よりも4倍ほどの距離が稼げる自転車を利用する人もいるという。

ツール・ド・フランス取材時にはル・ピュイアンブレから西に80kmほど離れた宿しか取れなかったので、3日間は長距離出勤を余儀なくされた。でもそのおかげで巡礼者が歩く姿や彼らに休息の場を提供する宿を目撃することができた。

巡礼地をクルマで走っているといきなり路面に出現したホタテマーク

ル・ピュイアンブレからサンチャゴデコンポステーラに向かって40km。象徴であるホタテ(フランス語でサンジャック)とエタップのマークが道路上にペイントされていた。時速4kmで歩いて10時間。頑張り屋なら宿に泊まるあたりだ。エタップとは宿場町のことで、日本ではステージと訳されているが、東海道五十三次のように旅人を迎える旅籠が軒を並べる町である。

巡礼宿はホタテのイラストが入った青い看板を掲げているのでよく分かる。森林や牧草地を突っ切る小径があって、それらはホームページに掲載されてルートの目安となっている。彼らの格好を見ているとお遍路さんというより登山者で、次の町に着くまでの食料と水分をバックパックに詰め込んでいく。体力と精神力がないとつとまらない大冒険だ。

巡礼者を安価で泊める宿には青い目印が打ちつけられている

出発地ではボクもキリストを抱いた聖母マリアの像まで行ってきた。火山活動でできた奇岩の頂点に建てられた聖母マリア像。石段を登り、頂上に到着するとマリア像があって胎内に入れる。最初はらせん状の石階段だが、それが心もとない鉄製になり、最後は細いハシゴで頭の部分に登れるんだけど、風で揺れるので脚がガクガクする。

スペインのサンチャゴデコンポステーラまで歩いていくというフランス人の2人にも荒涼たる大草原のど真ん中で会った。この地平線の向こうまでひたすら歩き続けるという。2人はとっても元気で、「行ってくるね。キミも頑張ってね」と言ってくれたけど、彼らは出発しておそらく2日目の朝。道のりはまだ果てしない。

サンチャゴデコンポステーラまで歩いていくというフランス人のカップルに出会った

欧州文化の象徴である巡礼の旅は世界最大の自転車レース、ツール・ド・フランスにとてもよく似ている。ゴールの町を宿場(エタップ)として、全力でひた走る。それはまさにカトリックの巡礼の旅を模したものとも言える。だからツール・ド・フランスは欧州文化そのものなのだ。そして箱根駅伝のように、区間によって浮き沈みがあったり、涙ながらにタスキが途絶えたりなどと日本人が好む要素が盛りだくさんある。だから日本でツール・ド・フランスの魅力にとりつかれた人が増えているのも当然なのである。

ル・ピュイアンブレをスタートしてまだ2日目の朝、ゴールは果てしないほど遠い

新刊「俺たちはみんな神さまだった」…野蛮で非人道的な冒険だった大戦後2度目のツール・ド・フランス

書籍「俺たちはみんな神さまだった」が12月8日、翻訳物の自転車書籍を取り扱う未知谷(みちたに)から出版された。ベンヨ・マソ著、安家達也翻訳。2500円(税別)。

第二次世界大戦後2度目、1948年のツール・ド・フランスが舞台。レース形態は現在のツール・ド・フランスとほぼ同じものに定着していたが、当時はより野蛮で非人道的な冒険だった。この年のジーノ・バルタリ(イタリア)の完璧な総合優勝は敗戦国の政治的混乱まで鎮めた。

じつに人間臭く自由奔放なフランス一周、しかも大きな社会的影響力を持った旅。この特別なレースを、1ステージごと分析するドキュメンタリー。

著者のベンヨ・マソは1944年オランダ生まれ。専門は社会学。11世紀から13世紀の中世ヨーロッパの宮廷文化研究で博士号取得。自転車競技にも強い関心を持ち、本書は「自転車ファンのマソと社会学者のマソの合作」と高く評価され、自転車競技の古典的書物と見なされている。

訳者の安家達也(あんけたつや)は1956年東京生まれ。中央大非常勤講師。専攻はドイツ文学。著書に『ツール100話』、『ツール伝説の峠』、『ジロ・ディ・イタリア 峠と歴史』、訳書に『ロード競技トレーニング』、『トレーニング日誌』(いずれも未知谷)がある。

◆◆俺たちはみんな神さまだった / ベンヨ・マソ/著 安家達也/訳 / 未知谷

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【Column】ボクのツール・ド・フランスはルーアンから始まった

自転車専門誌のサイクルスポーツが「別冊付録 ツール・ド・フランス 」を初めて発行したのが1989年。今中大介が日本人プロとして初出場を果たす1996年まで1冊まるごと担当してきた。翌年からはフリー記者として全日程を追いかけるようになるのだが、その開幕地がルーアンだった。

1997年のツール・ド・フランス初日。この日から単独取材活動が始まった。© 仲沢隆

今でこそ日本選手が当たり前のように参加するようになったが、20年前はこの世界最高峰の自転車レースに日本選手の姿があることさえまったく想像できなかった。ツール・ド・フランスの厳しさを現場にいて肌で感じているだけに、表彰台に日本選手が乗るということさえイメージできなかった。それほどツール・ド・フランスは、はるかなる存在だった。

開幕を迎えるルーアンの町に立ったときは、クルマを一人で運転しながら全日程を追いかけていけるのだろうかと不安でいっぱいだった。サルドプレスの一番隅に席を取ると、隣に座った記者が声をかけてきた。

「日本選手は出ているのか?」
「いないのになんでいるんだ?」

そう言われるのは当然だったけど、くやしさは飲み込んだ。いつかは日本選手が表彰台に立ってくれると信じて、毎年自費でフランス一周の旅をするしかなかった。

2012年、第4ステージのルーアンでボクが溜飲を下げるときが到来する。新城幸也が4km地点でアタックし、ゴールを目指して逃げに逃げて最終的に捕まったのだが、敢闘賞を獲得。日本選手が表彰台に上る歴史的な日となったのである。

で、表彰式。カメラマンは舞台の正面に陣取れるが、ボクのIDは記者なので表彰台の裏側しか入れない。それでも着替えを済ませた受賞者はコンタクトエリアでテレビ局、地元ラジオ、そして活字メディアの順にインタビューを受ける。ボクは大会のアテンド係に「アラシロの話が聞きたい」と伝え、活字メディアの場所で彼を待っていたのだが、テレビやラジオの取材が終わったとたんに、「さあ、敢闘賞の表彰だ」と連れていかれた。つまり話もなにもできかった。

2012ツール・ド・フランス、ルーアンで敢闘賞を獲得した新城幸也

かくして日本勢初の表彰台。カメラマンや日本の視聴者のみなさんはしっかりと晴れの舞台を見たことだろうが、ボクは舞台裏で司会者ダニエル・マンジャスのコールと大観衆の声援しか聞こえなかった。

しばらくして新城はわれわれ取材陣が待ち構えているところに来てくれたのでしっかりと話を聞くこともできた。そのときのボクは気持ちが高揚していて、しかもすぐに新聞社に原稿を送らなければならなかったので仕事に集中。すでに日本の朝刊の締め切りは過ぎていたので、翌々日になってしまったが日本のスポーツ新聞として初めて一面トップで自転車記事を掲載した。

夜遅くルーアン郊外のホテルに入って奇跡的に開いていたレストランで食事をして、ようやく部屋で落ち着くことができた。別にボクは選手じゃないので、くやしかったことやツラかったことなどないんだけれど、いろいろなことが脳裏をよぎった。よく覚えていないけど泣いたかも。

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フルームが自転車最優秀選手のベロドール獲得…バロンドールの姉妹賞

英国のクリストファー・フルーム(32=スカイ)が2017年の自転車最優秀選手として「ベロドール」を受賞した。2013、2015年に続く3度目のタイトルだが、今回は7月のツール・ド・フランスと秋のブエルタ・ア・エスパーニャを史上初めて連覇。勝利への執念と安定感が際立った。

ベロドール賞を獲得したフルーム

同賞はフランスの自転車専門誌「ベロマガジン」が企画した賞で、サッカー専門誌「フットボール」が選考するバロンドールの姉妹賞。どちらも発行元はツール・ド・フランスを主催するメディアカンパニーのASO。

12月15日付けの東京中日スポーツでも自転車最優秀選手賞のベロドールの歴史やフルームのコメントなどを紹介している。

ツール・ド・フランスの1区間を走るエタップ・デュ・ツール…日本からの挑戦者募集開始

世界中の著名人やプロ選手を含む実力派サイクリストがツール・ド・フランスの1ステージに挑む人気イベント「エタップ・デュ・ツール」。日本からの参加者を現地に送り込む公式ツアーが国際興業から発売され、その参加者募集が始まった。大会は2018年7月8日。ツアーは同6日から14日までの日程。

2018年の舞台はジョワイヨ・デザルプ(アルプスの宝石)と呼ばれるアヌシーから、まさに「ここがリゾート地」と断言したくなるほどの美しい町ル・グランボルナンにゴールする。国際興業では参戦ツアーを催行する日本で唯一の旅行会社としてこれまで21回参戦ツアーを実施。チャレンジ後はホンモノのツール・ド・フランスを現地で観戦する。

エタップ・デュ・ツールはツール・ド・フランスの1区間を走る1万5000人参加の一般大会で、27回目の開催となる。7月8日に開催される第27回エタップ・デュ・ツールは、同17日に開催されるツール・ド・フランス第10ステージとまったく同じものが採用された。43km地点を頂点とする標高1477mのラクロワフリ峠、距離6kmながら平均勾配11.2%の難度があるプラトーデグリエールの坂、ロンム峠を走り、最後に標高1618mのコロンビエール峠が待ち構える。大会最初の山岳ステージで、マイヨジョーヌの行方も左右する注目の1日。アヌシーとル・グランボルナンは2013年の第100回大会にも訪問した町で、長い夏休みをのんびり過ごすバカンスの象徴でもあるエリア。

●国際興業のエタップ・デュ・ツール参戦&ツール・ド・フランス観戦ツアー
http://www2.kokusaikogyo.co.jp/travel/letapedutour/



死ぬまでに泊まってみたいホテル…天文台で満天の星空を見る

ツール・ド・フランスの難所、標高2115mのツールマレー峠を眼下にするホテルに泊まった。130年の歴史を誇るピック・デュ・ミディ天文台で、針のような稜線のピークに建造された石造りの研究施設だ。標高はなんと2877m。

ツールマレーのベースキャンプとなるラ・モンジーの集落からテレキャビン(ロープウェイ)を2つ乗り継いでいく。ツール・ド・フランス期間中だったので、下手なところに駐車しておくとレッカー移動されそうで、オフィス・デュ・ツーリズムを訪ねて確認。「天文台の宿泊予約をしてあるのなら直接行けばいい」とこのとなので、まずはテレキャビン乗り場へ。

「ニュイ・オ・ソメ=頂上の夜」という窓口があったので、ベルを押して名前を告げるとネックストラップとIDカードを渡され、たどたどしい日本語で「楽しんできてください」と言われた。かなりゾクゾクするテレキャビンで到着すると、同乗したオペレーターが「泊まるんだね」とそのまま施設管理スタッフに引き継いでくれて、磁気カードを渡される。すべてのドアが電磁ロックなので、真夜中でもそのカギで開けられるところは歩き回ってもいいみたいだ。

太陽を観察する研究用のテレスコープ

部屋はかつての天文学者が使用していた質素なものだというが、内装は新品で取り付けられたきれいな洗面器の蛇口をひねるとお湯が出る。オイルヒーターで室温を20度に調整しているようで快適。トイレとシャワーは共同だが、これもピカピカだった。

午後6時半に宿泊者が集まって、天文研究員に施設を案内してもらった。ゾロゾロと付いていくと晩餐会場に到着。「ルパ」と言っていたので夕食というよりも晩餐だ。単独参加はボクだけだったが、かなり気にかけてくれて、テーブルも足もとまでガラス張りで断崖絶壁がストーンと見下ろせる特等席だった。地元鴨肉やフォアグラ、牛や豚肉を地元の伝統的な味付けをしたものが出てきて、テーブルにハーフボトルも。

ディナーテーブル。足もとはガラス張りで断崖絶壁が眼下に確認できる

最後のデザートともに1/4サイズのシャンパンボトルが出てきたので、これを持ってテラスに出て楽しむんだなと思った。研究員が「午後9時10分に集合」と言っていたので、ちょうど夕日が沈むところだった。あたりは一気に暗くなり、もちろん真冬の格好をしていたけれど冷え込んできたが、天体ドームの中に案内されて観測用の望遠鏡で土星を見せてくれた。

朝起きれば雄大なピレネーが一望できる。ツールマレー峠が小さく見える

宿泊者数は27人限定だが、予約すればだれでも泊まれる。さすが世界随一の観光大国。日本ではあり得ないスケールのおもてなし。フランスという国の底力を感じた。

テラスで思い思いに時を過ごす

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