第100回ツール・ド・フランスはスカイのクリストファー・フルーム(英国)の圧勝だった。窮地があったとすればハンガーノックになったラルプデュエズで、そのゴール後に、「好感度を高めるためにわざと?」という質問さえ飛び出るほどで、フルームはキューピーのような屈託のない笑顔で「そんなことはないよ」と返すのだった。
日本でプロ初勝利を挙げたフルームが記念大会を制覇
ホテルでの立ち話やゴール直後のフランス語によるインタビューを聞く限りは好青年だ。そのフランス語はたどたどしくも一生懸命で、「うん、だからそうなんだよね」と司会者も助け船を出したくなる。
日本のファンにしてみれば、プロ初勝利は2007年のツアー・オブ・ジャパン伊豆ステージで、親近感もあるだろう。もっと言及するとそのレースでスタート直後に飛び出したのがNIPPOに所属していた新城幸也。フルームは終盤に新城を逆転し、それでも新城は執拗に追撃をかけるがフルームに逃げ切られているのだ。
2012年の最終日前日、ボクはスカイチームと同宿で、エースのブラッドリー・ウィギンスがマイヨジョーヌを確実にした祝宴の席で、フルームとウィギンスの席がずいぶん離れていることを目撃した。最終日の朝には、ボクの部屋の前でカチューシャの監督がフルームを呼び止めるのだが、「ちょっと話があるので部屋に来ないか」という内緒話がつつ抜けだった。
わずか10分でフルームは部屋から出て行ったので、移籍には至らないなと推測できたが、朝食の会場ではボクの立ち話に付き合ってくれ、「来年もスカイでがんばるよ!」とさわやかな口調で話してくれたのだった。
そういった人当たりのよさを見せながらも、ロードバイクにまたがると別の側面がかいま見られる。2012年は遅れがちなウィギンスを振り返りながら「ついてこられないの?」とばかりの手振り。2013年も下りコーナーで制御不能に陥ったコンタドールに接触しかかって、「無謀なことはするべきじゃない」と内面をチラリと露呈させた。
勝てるところは全部持っていくという強い執念も感じる。ケニアのナイロビで生まれ、南アフリカで育ったという特異な境遇をもつフルームが、どんな考えを秘めてこのスポーツに没頭しているのか。2連覇がかかる2014年の大会とともに興味深いところなのだ。
日本チャンピオンの新城幸也が再びアタックを敢行
全日本チャンピオンの新城も存在感を示した。日本で国際映像を見ているとたまにしか登場しない歯がゆさもあっただろうが、現地ではマイヨジョーヌなどの実力者に劣らない人気ぶりだった。純白を基調とした日本のチャンピオンジャージは大集団の中でも際立つもので、沿道の地元ファンから「シャンピオンデュジャポン!」「ユキヤ・アラシロ!」と至るところで歓声がわき起こった。
目の肥えた欧州ファンは、ひいき選手が勝つところを見に来るわけじゃない。その選手のファイトが目の当たりにしたいんだ。ボクがツール・ド・フランス取材を始めた25年前、まずはこう教えられた。その言葉は今も普遍の真理で、新城がこれほどまでの気概をもって走る雄姿をこれまで以上に頼もしく感じた。
目標としていた優勝ができなかったのは、だれよりも自身が一番悔しいはず。落車によって強打した肋骨2本にヒビが入っていても、笑顔でそれを押し隠してスタートしていく。「シャンゼリゼの石畳は肋骨によくない」と思わずもらすのだが、苦悩や努力を決して人には見せないのが新城なのかも。
ボクたちは新城が勝つところが見たいんじゃないんだ(見たいけど)…。そのガッツが見たいんだからこの年も大満足だ。
ボクのツール・ド・フランス取材も25年。劇的に変わったのはインターネットの普及による報道の高速化。科学的トレーニングを導入してコンディショニングして乗り込む選手。チームバスに代表される快適なインフラの整備。カーボンコンポジットはあの時代からあったが、スプロケットは7段から11段へ(当時)。おそらくこういった有形なアイテムは飛躍的に進化した。
変わっていないこともある。沿道で待ち構える観客の笑顔。ラルプデュエズの坂道のキツさ。パリにたどり着くことなくリタイアしていく選手の無念。そして夏のバカンスというワクワク感とともにやってくる一大スペクタクル。
第100回大会とて、あまり肩肘を張ることなく普通にやってしまうのが伝統の重み。きっと100年後も、機材の進化はあれどみんなのワクワク感は変わらないんじゃないかな。
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