ツール・ド・フランス歴代記録集(1903年から2024年まで)

●個人総合優勝回数
5勝
ジャック・アンクティル(フランス)1957,1961,1962,1963,1964
エディ・メルクス(ベルギー)1969,1970,1971,1972,1974
ベルナール・イノー(フランス)1978,1979,1981,1982,1985
ミゲール・インデュライン(スペイン)1991,1992,1993,1994,1995
4勝
クリストファー・フルーム(英国)2013,2015,2016,2017
3勝
フィリップ・ティス(ベルギー)1913,1914,1920
ルイゾン・ボベ(フランス)1953,1954,1955
グレッグ・レモン(米国)1986,1989,1990
タデイ・ポガチャル(スロベニア)2021,2022,2024

●マイヨジョーヌ着用日数
エディ・メルクス(ベルギー)111*
ベルナール・イノー(フランス)79*
ミゲール・インデュライン(スペイン)60
クリストファー・フルーム(英国)59
ジャック・アンクティル(フランス)52*
タデイ・ポガチャル(スロベニア)40
*ドゥミタップ(午前と午後にそれぞれ行われる半ステージ)を含む

●ステージ優勝回数
エディ・メルクス(ベルギー)34
マーク・カベンディッシュ(英国)34
ベルナール・イノー(フランス):28
アンドレ・ルデュック(フランス):25

●1大会のステージ優勝回数
シャルル・ペリシエ(フランス、1930)8
エディ・メルクス(ベルギー、1970・1974)8
フレディ・マルテンス(ベルギー、1976)8

●ポディウム(総合1位から3位までの表彰台)
レイモン・プリドール(フランス)8

●参加回数
シルバン・シャバネル(フランス)18
ジョージ・ヒンカピー(米国)17
イェンス・フォイクト(ドイツ)17

●ポイント賞
ペテル・サガン(スロバキア)7

●山岳賞
リシャール・ビランク(フランス)7

●新人賞
タデイ・ポガチャル(スロベニア)4
ヤン・ウルリッヒ(ドイツ)3
アンディ・シュレック(ルクセンブルク)3

●国籍別の総合優勝回数
フランス:36勝
ベルギー:18勝
スペイン:12勝
イタリア:10勝
英国:6勝
ルクセンブルク:5勝
米国:3勝
デンマーク:3勝
スロベニア:3勝
オランダ:2勝
スイス:2勝
ドイツ:1勝
オーストラリア:1勝
コロンビア:1勝
アイルランド:1勝

●優勝者と2位の最小タイム差
8秒:1989年(優勝グレッグ・レモン、2位ローラン・フィニョン)

●優勝者と2位の最大タイム差
2時間49分21秒:1903年(優勝モーリス・ガラン、2位ルシアン・ポチエ)

●最年長優勝
フィルマン・ランボー(ベルギー、1922):36歳

●最年少優勝
アンリ・コルネ(フランス、1904):20歳
第二次世界大戦後の最年少優勝はタデイ・ポガチャル(スロベニア、2020):21歳

●メディア
取材メディア数:500
記者・カメラマン:45カ国・1800人
テレビ放送:190カ国、100系列局、うち生中継60局
総放送時間:7000時間
公式サイト:1700万ユニークユーザー、2億2200万ページビュー
SNS(Facebook・ツイッター・インスタグラム・YouTube):7500万フォロワー
モバイルアプリ230万ダウンロード
映像視聴者7340万人


ツール・ド・フランスの5勝クラブ

ツール・ド・フランス総合優勝の歴代最多記録は5勝。ジャック・アンクティル(フランス)。エディ・メルクス(ベルギー)。ベルナール・イノー(フランス)。そしてミゲール・インデュライン(スペイン)。「クラブサンク」と呼ばれる「5勝クラブ」への会員登録が許されたのは100年以上の歴史の中でこの4人しかいない。もちろんそんなクラブは実在せず、紙面上で担当記者が好んで使う表現。

ジャック・アンクティル

山岳ステージでヒルクライムのスペシャリストと渡り合い、タイムトライアルでライバルをねじ伏せる。勝利の方程式を確立させたのがフランスのジャック・アンクティルだった。タイムトライアルの伝統レース、グランプリ・デ・ナシオンで9連覇するなど、あらゆるタイムトライアルでトップレコードを記録した。アンクティルのツール5勝はまさにタイムトライアルの勝利によるものだった。深いクラウチングスタイル、華麗なペダリング。近代レースの幕開けを率先したレーサーで、史上初の5勝を記録した。変速機にこだわり、フランスメーカーのサンプレックスから晩年はカンパニョーロに乗り換えた。変速メカの重要性がクローズアップし、機材としての進化が推進されたのもアンクティルがいたからである。


エディ・メルクス

2019年、ブリュッセルの表彰式で大観衆に手を振るメルクス ©ASO Olivier CHABE

ベルギーのエディ・メルクスは自転車競技の歴史の中でも伝説的な選手で、20世紀を代表するスポーツ選手として、自転車選手でただ一人選出された。生涯勝利記録は437勝。ジロ・デ・イタリアとツール・ド・フランスの両方で大会最多記録となる5勝をマーク。ツール・ド・フランスでは、1970年と1974年にステージ8勝を挙げている。
その勝ち方は圧倒的だった。ワンデーレースのクラシックもステージレースも根こそぎ勝ちまくり、その戦いぶりから「カンニバル=人食い鬼」とも呼ばれた。ツール・ド・フランスでも総合1位のマイヨジョーヌを着ながら、パリのゴールスプリントを制したこともある。平たんステージで逃げを決め、山岳でも独走する。マイヨジョーヌを着用した日数はなんと96日(午前と午後に開催されたドゥミエタップを考慮せず)。決して破られることのない不滅の記録の持ち主だ
現在は自らの名前を冠したフレーム製作会社を経営し、ロット・ドモチームが使用している。息子のアクセル・メルクスは現役選手として活躍中。


ベルナール・イノー

パリ〜ルーベを走るベルナール・イノー

ツール・ド・フランスで5勝をあげた選手の中でも最も荒々しく、好戦的なレーサーがイノーだ。1954年11月14日生まれ、フランスのブルターニュ出身ジタンチームに所属していた1978年にツール初優勝。以来ツールは通算5勝、ジロ・デ・イタリア3勝、ヴェルタ・エスパーニャ2勝、世界選手権ロード優勝など、あらゆるメジャーレースを総なめにした実力者。
ニックネームは「ブルターニュの穴グマ」。ツールでは、このイノーの1985年優勝を最後に地元フランス勢は総合優勝から遠ざかっている。現役引退後はツール主催者の専門委員に就任。今でもレース会場には欠かせぬ存在となっている。
イノーと言えばジャージの胸元を引き裂いて走るほど荒々しい性格だったが、それと同時に最新鋭機材を次々と導入し、自転車界に革命をもたらせたことでも知られた。1980年代に入ってすぐに、涙滴断面のエアロチューブを駆使し、その後のエアロブームを巻き起こしたのもイノーだった。このフレームに装備されているルックのビンディングペダルだってその代表だ。100年の歴史があったトウクリップをわずか数年で引退に追い込んでしまった功罪の首謀者だ。
絶対的な自負心を発散し、エースとアシストという徒弟制度を確立させたイノー。最後の総合優勝の時、落車で鼻骨骨折するアクシデントもあって、チーム内の若きグレッグ・レモンに優勝を譲られた形で終幕した。そのときに「来年はおまえに譲るから」という話があったはずである。


ミゲール・インデュライン

スペインの無敵艦隊ミゲール・インデュライン

スペインの太陽王と呼ばれたミゲール・インデュラインは、スペイン北部のバスク地方の出身。1984年にイバネストチームの前身である、レイノルズでプロデビュー。先輩格のペドロ・デルガドのアシスト生活が長く、頭角を現したのは20代の最後の方だ。身長188cmと大柄だが、山岳ステージに強く、ヒルクライマーと互角に渡り合い、得意のタイムトライアルで圧勝する。まさにアームストロングと同じ勝ちパターンで勝利を重ねていった。
性格は温厚で、誰からも愛され、頭脳的な走りもできる。アームストロングさえも、「ミゲールのような、あんな偉大な選手になりたい」と言わしめたほどの完全無欠なレーサーだった。ツール・ド・フランスでは鉄壁の走りで5連覇を達成したが、1996年にアルプスで脱落し、デンマークのビャルネ・リースに連覇を阻止された。引退も早く、そのシーズンを最後に現役生活に終止符を打った。

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【ツール・ド・フランスリバイバル】2011年、マイヨジョーヌ南半球へ

第98回ツール・ド・フランスはオーストラリアのカデル・エバンス(BMC)が南半球にある国の出身選手として初となる総合優勝を達成した。34歳だった。1分34秒遅れの総合2位はルクセンブルクのアンディ・シュレック(レパード・トレック)。2分30秒遅れの同3位は兄フランクで、兄弟がパリの表彰台に一緒に立つのは史上初。

第4ステージで勝利を確信したコンタドールがガッツポーズするが、写真判定でエバンス(右)が先着していた

エバンスは第4ステージで区間優勝すると、合計6区間ある山岳コースでも有力選手から致命的な遅れを取ることなく、最終日前日の個人タイムトライアルへ。得意とするこの種目で57秒遅れの総合3位から一気に首位に立った。

「自転車をやり始めてからここまで20年間。ツラいことも多かったが、たくさんの苦労が今日の栄冠をもたらしてくれた」とエバンス。

もともとはMTB選手でW杯シリーズ年間王者に2年連続で輝いた実績がある。自国開催のシドニー五輪後、欧州を活動拠点にしてロードレースに本格転向。2009年には世界チャンピオンになったが、アシストを含めた総合力が問われるツール・ド・フランスではチーム力に恵まれず何度も優勝を逃してきた。

開幕地バンデ県に本拠地を置くヨーロッパカーチームは、地元出身選手を多用したフランス純血チームに。新城幸也はそれに押し出される形でメンバー落ちしたが、「ユキヤが選ばれないのは理解できない」という地元ファンの声が聞かれた。

干潮時にしか海面上に姿を現さないパサージュ・デュ・ゴワが開幕日のスタート地となった

ジロ・デ・イタリア制覇のコンタドールが読み違えたこと

この2011年大会の開幕では、スペインのアルベルト・コンタドール(サクソバンク)は3年連続4回目の総合優勝を目指す大本命だった。後日前年の総合優勝が薬物使用によって取り消されるが、コンタドールの実力はだれもが認めていた。ただしコンタドールにとっては、じつのところ番狂わせなツール・ド・フランス出場だった。

コンタドールは5月に開催されたジロ・デ・イタリアで圧勝していた。周囲はマルコ・パンターニ以来となる12年ぶりの二大大会制覇を期待した。しかし開幕地に登場したコンタドールの調整不足は明らかだった。科学的コンディショニングが導入される近年においては、その間隔が1カ月しかない23日間の過酷なレース2つをベストで臨むことは非常に難しいことなのだ。

コンタドール(3人目)は第1ステージの終盤に落車に巻き込まれ、いきなり1分20秒遅れた

コンタドールも当然、世界最高峰の自転車レースであるツール・ド・フランスを最重要視していた。それでもなぜジロ・デ・イタリアに出場したのか。それは前年のツール・ド・フランスで誤差の範囲ほどの微量ながら禁止薬物が検出されたことで、それを理由に主催者からシャットアウトされる可能性があったからだ。

ツール・ド・フランスの欠場を想定してジロ・デ・イタリアに参戦。その大会で地元イタリア勢を寄せ付けることなく圧勝。皮肉なことにその後、ツール・ド・フランスに参加ができることになるのだが、ジロ・デ・イタリアの疲労をコンタドールは取り切れていなかった。案の定、第1ステージの終盤に発生した落車で立ち往生し、初日で1分20秒もロス。失ったこのタイムは終盤になって大きく影響してくる。

絶好のスタートを切ったのはエバンスだ。2007、2008年と僅差で総合2位になっていたが、ここ2年は若手期待のアンディ・シュレックが台頭し、この34歳の選手は優勝候補の大本命とは見なされていなかった。しかし初日に3秒遅れの総合2位につけると、序盤戦にマイヨジョーヌを独占したトール・ヒュースホウトをわずか1秒差で追走。絶好の位置で勝負どころとなる山岳ステージを迎えた。

コンタドールの不調で優勝の最有力となったアンディは、兄のフランクとともに前半戦になりを潜めた。まるで調子が悪いのかとも思えるような、動きの見られない走りだった。それでもライバルとなるコンタドールがタイムを失い、うるさい存在であるアレクサンドル・ビノクロフが落車によってレースを去っていく。

中央山塊の第9ステージでトマ・ボクレールがマイヨジョーヌを獲得しても、シュレック兄弟が山岳ステージで勝負に転じる計画は変わらなかった。

2011ツール・ド・フランスでマーク・カベンディッシュは区間5勝、マイヨベールも獲得した

フランスのボクレールが意地を見せた

ところがここで頑張ったのがボクレールだ。1985年のベルナール・イノー以来、最終的なマイヨジョーヌから遠ざかっているフランス勢にあって、ボクレールは見事なまでの執着心を見せつけた。

「山岳でマイヨジョーヌを手放すことになるよ」とは言い逃れ。あるいはチームメートのプレッシャーを減じるためのハッタリだった。

ピレネーの3日間をボクレールはマイヨジョーヌを守り抜いた。さらにアルプスでも2日間崩れなかった。ファンは「パリまでマイヨジョーヌを守るのでは」という期待もわずかにふくらんだ。しかしそこはボクレール。

最後の山岳となるラルプデュエズ。一発逆転をねらったコンタドールに対して、アンディが反撃を許さずにゴール。さすがにボクレールも脱落して、ようやくここでアンディがマイヨジョーヌを獲得する。

広告キャラバン隊は夜遅くまで騒いでいるが、朝早くから販促物の封入作業も

しかし2011年の大会は、それでドラマがフィナーレを迎えるという筋書きではなかったようだ。

最終日前日の個人タイムトライアルへ。合計6区間ある山岳コースで有力選手から致命的な遅れを取ることがなかったエバンスが、得意とするこの種目で57秒遅れの総合3位から一気に首位に立った。およそ10年間、ツール・ド・フランスでは苦悩の日々を費やしてばかりだったが、まさにマイヨジョーヌへの執着心が爆発した。

2011年の大会はたった1枚しかない黄色いジャージへのこだわりが強かった選手に最終的に落ち着いたという感がしてならない。


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【ツール・ド・フランスリバイバル】
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【ツール・ド・フランスリバイバル】2010年、コンタドールの栄冠はく奪

前年に2度目の優勝を果たしたアスタナのアルベルト・コンタドール(スペイン)がサクソバンクのアンディ・シュレック(ルクセンブルク)をわずかに制してパリでマイヨジョーヌを着用した。ところが後日、微量の禁止薬物がコンタドールが受けたドーピング検査で検出され、2011年になってタイトルはく奪。総合2位シュレックが繰り上がり優勝者となった。

アンディ・シュレック。マイヨジョーヌとマイヨブランの統合ジャージは実際にあるわけではなく、撮影のために用意されたもの
頼もしいアシスト役として存在感あふれる走りを見せた新城幸也

前年に初出場にして日本選手初の完走を果たした新城幸也(ブイグテレコム)はこの年も連続出場。23日間を戦い抜き、2年連続となる完走を果たした。

呼吸器疾患と精神状態に苦しんでいたコンタドール

前年はチーム内に難敵ランス・アームストロングを抱えながら、チームぐるみの妨害に耐えて総合優勝したコンタドール。2010年は2年連続3度目の優勝に挑むために、オランダのロッテルダムで開幕した大会に乗り込んできた。

この年の7月はウィンブルドンでナダルが優勝し、サッカーW杯でスペインが快進撃していた。4年に一度の遭遇としてサッカー大会と日程が重なった第97回ツール・ド・フランス。9日目にコンタドールは自国スペインの優勝を喜ぶことになり、「7月はスペインスポーツの強さを見せつけたい」と総合優勝への意欲を見せた。そして幸先のいいスタートを切る。序盤のアルプスを終えて首位アンディ・シュレックを41秒差でピッタリとマークした。

ところがコンタドールは、ことあるごとにサッカーなど別の話題を持ち出してみて、自らの調子に関する質問をはぐらかした。じつはコンタドールは、2010年大会にこれまでのようなベストコンディションで臨んでいなかった。欧州の異常気象によって呼吸器系の持病に苦しんでいたとも伝えられる。

アスタナとサクソバンクのつばぜり合いは最後まで続いた

精神面でも追い込まれていたとして当然だ。2009年、アスタナチームはランス・アームストロング派に傾倒し、コンタドールへの忠誠を拒否した。チーム内にいたこの最大のライバルが、幸いなことに2010シーズンはアームストロングと結託していたブリュイネール監督とともに立ち去るのだが、それと入れ替わってカザフスタンの英雄的存在アレクサンドル・ビノクロフが復帰してきた。

大会側も2006年から4連覇を続けるスペイン勢にハンデを押しつけてきた。スペイン勢が活躍の場としない北フランスの石畳みをコースに組み込んだのだ。もちろんコンタドールも「北の地獄」と呼ばれる石畳の悪路は未体験。案の定、コンタドールはここでアンディ・シュレックから1分13秒というタイムを失った。この第2ステージが終わってコンタドールはシュレックに対して31秒遅れだった。

マイヨジョーヌのアルベルト・コンタドールが山岳で揺るぎない走りを見せた

ライバルはシュレック。親しい仲もついに決裂?

アルプス初日の第8ステージでも、コンタドールは区間優勝のシュレックから10秒遅れでゴール。翌ステージでマイヨジョーヌはシュレックのものになった。この時点で総合優勝争いはシュレックと、それを41秒差で追うコンタドールの2人に絞り込まれた。

中央山塊のマンドにゴールする第12ステージで、コンタドールはシュレックを引き離すことに成功したが、区間勝利に固執したばかりにゴール時点ではわずか10秒しか稼ぎ出すことができず。タイム差は再び31秒になった。

そして運命の第15ステージ。ピレネーのポルトデバレスを上る山岳区間がキーポイントとなった。残り21.5km地点を頂上とするカテゴリー超級の峠で、コンタドールはアシスト役のビノクロフとともにシュレックの様子をうかがった。長い峠道で山岳スペシャリストのシュレックに差をつけることは容易ではなかった。

ツールマレー峠

頂上まであと3kmという地点でマイヨジョーヌを着るシュレックのほうが先手を打った。急加速によって一気に差を開く。あわててビノクロフがこれを追う。コンタドールは反応がわずかに遅れた。ところが次の瞬間、シュレックのペースが明らかにダウンした。

「ここだ」とばかりにコンタドールがカウンターを仕掛けた。この時点で総合3位のサムエル・サンチェス、同4位のデニス・メンショフも追従。

シュレックはフロントチェーンリングのチェーンを脱落させていた。あわててしまったのはシュレックだ。一度自分でかけ直すが失敗。再び地面に足をつけて震える手でチェーンをかけ直した。わずか十数秒のことだったが、上りでコンタドールらに追いつくことができず、ゴールまでの下りでも追いつけなかった。シュレックはこの日39秒失った。総合成績は8秒差で2位になっていた。

ゴール後の記者会見に出席したコンタドールは「ここでタイムを稼げたのはうれしい限りだ」と語り始めたが、記者団が「シュレックのメカトラブルは見ていたのか」という質問に、笑顔が消えた。

「見ていない。シュレックがペースダウンしたのは知っているが…」

ホテルに到着して国際映像で流されたそのシーンを見て、コンタドールはさらに青ざめたはずだ。すぐに緊急のビデオ出演。「シュレックのトラブルに乗じるつもりはなかった」と謝罪した。

2010ツール・ド・フランス

マイヨジョーヌが不運で遅れたときは待たないといけないのか?

マイヨジョーヌがトラブルに見舞われ、それで総合優勝の行方が大きく変わっていくという例は過去にもある。今回はまさに大詰めの、それも最大の勝負どころでトラブルが起きた。それはシュレックにとって不運なことだったが、コンタドールのアタックまで否定するものではないというのが、プレスセンターの雰囲気だった。

じつは第2ステージでシュレック兄弟が落車で遅れたとき、メイン集団が彼らの復帰を待ったというのも異例だった。もしこのとき、コンタドールを含めた有力選手がペースダウンに同意しなければ、アンディ・シュレックは大会3日目にして総合優勝争いから脱落していたとしても不思議ではない。

ゴール後は悪態をついたシュレックだったが、コンタドールの対応に翌日には冷静さを取り戻したのはさすがだった。

2010ツール・ド・フランス

コンタドールはこれまで、アームストロングの急先鋒として期待され、人気が高かった。そのアームストロングが失速したことで手のひらを返すかのようにアンチコンタドール化したファンは無情だ。

「精神的には昨年よりもツラい大会だった」とコンタドールが語った理由は、表彰式で耳に入ったブーイングだろう。

ランス・アームストロングが最後のツールマレー峠でアタックし、意地を見せた

第97回ツール・ド・フランス。新城に幸運の女神はほほえんだか?

「逃げます!」と宣言するのは簡単です。でも実際にはとんでもなく難しいことなんです。簡単にできることだったら、さっさとやっています。

国際映像に向かって手を振ったり、沿道の日の丸にこやかにほほえんだりしながらも、新城幸也は苦悩していた。だってツール・ド・フランスには21の白星しかないからだ。そのなかには個人タイムトライアルがあり、さらに急峻な山岳ステージを差し引くと、新城のようなアタッカーが勝負できるステージは片手の指の数ほどしかない。

数少ないチャンスをいかにものにするか。ずば抜けた実力とともに、そのときの運も味方につけなければならない。

2009年のツール・ド・フランスに初出場した鉄馬(カミンマ)こと新城は、マスドスタートの最初のレース、つまり大会2日目の第2ステージでいきなり区間5位に食い込んだ。世界中が驚いただろうが、取材歴が20年以上になるボク自身もビックリした。

当然のように日本のファンの期待は一気にふくらんだ。「出場するからには勝ちにいかなきゃ意味がない」と意欲を語る新城の表情に、心の中ではプレッシャーにもなったはずだ。

新城幸也のチームジャージにはエリとソデに元日本チャンピオンの誇りを配置

昨年の経験があるので、23日間のペース配分がわかっているのが強み。

複線は5月のジロ・デ・イタリア。距離162kmで行われた第5ステージで新城は15km地点で単独アタック。これに他の3選手が追従してゴールまで逃げまくった。途中で1選手が脱落すると、数にものを言わせた後続の大集団が残り1kmで3人を飲み込もうとしたが、ここから新城が起死回生のスパート。大集団からまんまと逃げ切った。

空気抵抗の大きい先頭を突っ走ってゴールを目指した新城は、最後にパワーを集中させることができずにクイックステップのジェローム・ピノーに優勝をさらわれ、3位となる。

「悔しい。こんなチャンスは二度とないかも知れないのに。日本のみなさん、ごめんなさい!」

この年のツール・ド・フランス開幕時、「ピノーに会ったら両手を差し出して、なんかプレゼントはないの?って言うんだ」と新城は冗談っぽく語っていたが、そのピノーには貴重なアドバイスをもらった。

「ああいう無謀なアタックを20回やって、1回勝てたらもうけもの。ツール・ド・フランスとはそういうものさ」

新城幸也が2年連続でシャンゼリゼに帰ってきた

目立つことだけでなく、キッチリと仕事をこなす

チームはスプリンターとしての新城の実力を高く評価している。それでも本人は全面的にスプリンターであることを否定する。「スプリンターは最後の勝負まで静かにしていなければいけない。おとなしくしているのは退屈で好きじゃない。アタックしたほうが楽しいじゃないですか」

ツール・ド・フランス2回目の休息日にて。日本人記者が集まった記者会見もリラックスして臨めるようになった。これも2年目の実績である。

2年連続出場を決めた新城は、2009年以上に総合力を高めていた。第11ステージでは区間6位。それ以外の平たんステージでもトップが見えるところで勝負に加わった。すべてスプリンターとしての実績だ。

しかしアタッカーとしての新城はヨーロッパの列強に封じ込められたと言っていい。

「ツール・ド・フランスのようなメジャーレースが、スタート直後の1回のアタックで決まってしまうのは絶対におかしい!」

新城がいつもとは違う口調で吐き捨てたことがあった。

つまり自転車レースというのは駆け引きや心理作戦があり、総合成績と区間勝利が同時進行で展開していく複雑さがあって興味深いのだと。それが序盤の単調なアタックで決まってしまうのは我慢ならないということだ。

その一方で新城が前に出ようとしたときには封じ込められる。「日本人に勝手なことをされては困る」という意志があるかのようだ。

それを打ち破るのは容易ではない。次は果たせなかった一発勝負を。そして5年後には総合優勝を争うオールラウンダーに。夢が夢でなくなる時代は確実に近づいている。


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「今年最大のスポーツイベントに」ツール・ド・フランス延期開催に期待

自転車レースのツール・ド・フランスが2カ月遅れの8月29日から9月20日までという日程で延期開催されたことが4月15日に発表され、出場チームの選手や監督らはSNSなどで一様に肯定的な反応を示した。暗くて長いトンネルの先にわずかな光が見えたからだ。

2018ツール・ド・フランス新人賞のピエール・ラトゥール(フランス、AG2Rラモンディアル) © ASO

ロード練習よりもステキじゃないけど、準備はしている

「ツール・ド・フランスは社会やスポーツのある生活の中で極めて重要な存在だ。チームはこれまで以上の集中力をもって、ロマン・バルデとピエール・ラトゥールのデュオでスタートに立ちたい」と、AG2Rラモンディアールのバンサン・ラブニュ監督。

「選手は自宅でトレーニングをしていて、チームのコーチや監督と絶えず連絡を取り合っているので、ゼロから始めるわけではない。ツール・ド・フランスが7月に行われなくても、レースが村を通過するとき、選手たちの走る姿を見る機会があることを願っている。ツール・ド・フランスの開催はみんなが確実に前進する勢いを与えてくれる」

サッカーの欧州選手権と東京オリンピックが延期された2020年、ツール・ド・フランスは確実にこの年開催される最大のスポーツイベントになったともいう。

現時点では、チーム所属選手のほとんどは自宅でローラー台に乗り、ソフトウェアプラットフォームを使用して、お互いを見つけて一緒にトレーニングを続けている。

「ロード練習よりもステキじゃないけど、ツール・ド・フランスの準備についてはなんの心配もない」と監督。

「延期されたイベントの中で、クリテリウム・デュ・ドーフィネがツール・ド・フランスの前にスプリングボードとして開催されることを願っている。大会カレンダーは、今年の最後の3カ月間に集約されるので、選手ごとにレーススケジュールを編成していく。おそらくハードなスケジュールになるが、適応できる。みんなが前を向く意志を持っているからね」

2019ツール・ド・フランス第8ステージ ©ASO Pauline BALLET

病院の現状と比べたら室内練習なんてなんのことはない

エースを託されるラトゥールもツール・ド・フランス延期開催の報に笑顔を見せた。

「ツール・ド・フランスが8月末に始まるなら、これはフランスが現状を打破し、世界の状況が改善されることを意味する。ボクたちは4週間もロード練習できていないが、それは現在病院で起こっていることに比べてあまり重要ではない。サイクリングシーズンが再び始まるのをうれしく思っている」

フランスでは感染者13万人超、死者は米国、スペイン、イタリアに次ぐ1万5000人超。マクロン大統領は13日夕方に声明を出し、新型コロナウイルスの感染拡大を食い止めるための外出制限を5月11日まで延長するとした。

大規模なイベントについては少なくとも7月中旬までは開催できないとして、これを受けたツール・ド・フランス主催者が2カ月遅れの延期開催を判断した。

これまでの経緯は🇫🇷ツール・ド・フランス2020特集サイトで。

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2020ツール・ド・フランスが大会延期、8月29日開幕

ツール・ド・フランスの主催社ASOは4月15日13時(欧州中央時間)、2020ツール・ド・フランスの開催を延期すると正式に発表した。2020年8月29日(土)から9月20日(日)までに大会日程を変更した。

当初は6月27日から7月19日の開催日程だったが、新型コロナウイルス感染拡大により断念した。およそ2カ月遅い開幕となるが、開幕地ニースからゴールのパリまでのコースに変更はない。

●2020ツール・ド・フランスの大会日程
8月29日 第1ステージ ニース〜ニース 156km
8月30日 第2ステージ ニース〜ニース 187km★★
8月31日 第3ステージ ニース〜システロン 198km★
9月1日 第4ステージ システロン〜オルシエール・メルレット 157km★★
9月2日 第5ステージ ガップ〜プリバ 183km★
9月3日 第6ステージ ルテイユ〜モンエグアル 191km★★★
9月4日 第7ステージ ミヨー〜ラボール 168km
9月5日 第8ステージ カゼール・シュル・ガロンヌ〜ルダンビエル 140km★★★
9月6日 第9ステージ ポー〜ラランス 154km★★★
9月7日 休日
9月8日 第10ステージ オレロン島〜レ島 170km
9月9日 第11ステージ シャトライヨン・プラージュ〜ポワティエ 167km
9月10日 第12ステージ ショビニー〜サランコレズ 218km★
9月11日 第13ステージ シャテルギヨン〜ピュイマリーカンタル 191km★★
9月12日 第14ステージ クレルモンフェラン〜リヨン 197km★
9月13日 第15ステージ リヨン〜グランコロンビエール 175km★★★
9月14日 休日
9月15日 第16ステージ ラツールデュパン〜ビラールドランス 164km★★
9月16日 第17ステージ グルノーブル〜メリベル・ラロズ峠 168km★★★
9月17日 第18ステージ メリベル〜ラロシュ・シュル・フォロン 168km★★★
9月18日 第19ステージ ブールアンブレス〜シャンパニョール 160km★
9月19日 第20ステージ リュール〜ラプランシュ・デ・ベルフィーユ 36km(個人タイムトライアル)★★
9月20日 第21ステージ マントラジョリ〜パリ・シャンゼリゼ 122km
★は難易度

これまでの経緯は🇫🇷ツール・ド・フランス2020特集サイトで。

🇫🇷ツール・ド・フランス公式サイト

ツール・ド・フランスは8月29日〜9月20日開催案が浮上か

2020ツール・ド・フランスは当初予定されていた日程から2カ月遅く、8月29日に開幕したいという新たなスケジュールで調整に入ったことが欧州の複数メディアで報じられた。UCI・国際自転車競技連合とチームなどの代表者が4月15日に会合を開いて議論する予定だ。

2019ツール・ド・フランス第11ステージ ©ASO Pauline BALLET

4月13日夕方にフランスのエマニュエル・マクロン大統領が、「大勢の観客を集めるような主要なフェスティバルやイベントは、少なくとも7月中旬まで開催できない」と発表した。

この言葉を考慮して、ツール・ド・フランス主催者は新しい日程を見つけることを余儀なくされた。新型コロナウイルス感染の状況が刻一刻と変わる中で、ツール・ド・フランスは新しいプログラムの構築に努めている。

UCIとチームなどの代表者は、ツール・ド・フランスの新しい日付を正式にするために15日に会合する予定。当初のツール・ド・フランスは6月27日に南フランスのニースで開幕する予定だったが、8月29日に延期される可能性があるという。コースは原則として変更しない考えを主催者は示している。

主催者の最高権威、クリスティアン・プリュドムは無観客開催を拒否している。そのためには日程を変更するしか手段がないという。8月29日に開幕した場合、ツール・ド・フランスは9月20日にパリにフィニッシュすることになる。

🇫🇷ツール・ド・フランス2020特集サイト
🇫🇷ツール・ド・フランス公式サイト