【ツール・ド・フランスリバイバル】2010年、コンタドールの栄冠はく奪

前年に2度目の優勝を果たしたアスタナのアルベルト・コンタドール(スペイン)がサクソバンクのアンディ・シュレック(ルクセンブルク)をわずかに制してパリでマイヨジョーヌを着用した。ところが後日、微量の禁止薬物がコンタドールが受けたドーピング検査で検出され、2011年になってタイトルはく奪。総合2位シュレックが繰り上がり優勝者となった。

アンディ・シュレック。マイヨジョーヌとマイヨブランの統合ジャージは実際にあるわけではなく、撮影のために用意されたもの
頼もしいアシスト役として存在感あふれる走りを見せた新城幸也

前年に初出場にして日本選手初の完走を果たした新城幸也(ブイグテレコム)はこの年も連続出場。23日間を戦い抜き、2年連続となる完走を果たした。

呼吸器疾患と精神状態に苦しんでいたコンタドール

前年はチーム内に難敵ランス・アームストロングを抱えながら、チームぐるみの妨害に耐えて総合優勝したコンタドール。2010年は2年連続3度目の優勝に挑むために、オランダのロッテルダムで開幕した大会に乗り込んできた。

この年の7月はウィンブルドンでナダルが優勝し、サッカーW杯でスペインが快進撃していた。4年に一度の遭遇としてサッカー大会と日程が重なった第97回ツール・ド・フランス。9日目にコンタドールは自国スペインの優勝を喜ぶことになり、「7月はスペインスポーツの強さを見せつけたい」と総合優勝への意欲を見せた。そして幸先のいいスタートを切る。序盤のアルプスを終えて首位アンディ・シュレックを41秒差でピッタリとマークした。

ところがコンタドールは、ことあるごとにサッカーなど別の話題を持ち出してみて、自らの調子に関する質問をはぐらかした。じつはコンタドールは、2010年大会にこれまでのようなベストコンディションで臨んでいなかった。欧州の異常気象によって呼吸器系の持病に苦しんでいたとも伝えられる。

アスタナとサクソバンクのつばぜり合いは最後まで続いた

精神面でも追い込まれていたとして当然だ。2009年、アスタナチームはランス・アームストロング派に傾倒し、コンタドールへの忠誠を拒否した。チーム内にいたこの最大のライバルが、幸いなことに2010シーズンはアームストロングと結託していたブリュイネール監督とともに立ち去るのだが、それと入れ替わってカザフスタンの英雄的存在アレクサンドル・ビノクロフが復帰してきた。

大会側も2006年から4連覇を続けるスペイン勢にハンデを押しつけてきた。スペイン勢が活躍の場としない北フランスの石畳みをコースに組み込んだのだ。もちろんコンタドールも「北の地獄」と呼ばれる石畳の悪路は未体験。案の定、コンタドールはここでアンディ・シュレックから1分13秒というタイムを失った。この第2ステージが終わってコンタドールはシュレックに対して31秒遅れだった。

マイヨジョーヌのアルベルト・コンタドールが山岳で揺るぎない走りを見せた

ライバルはシュレック。親しい仲もついに決裂?

アルプス初日の第8ステージでも、コンタドールは区間優勝のシュレックから10秒遅れでゴール。翌ステージでマイヨジョーヌはシュレックのものになった。この時点で総合優勝争いはシュレックと、それを41秒差で追うコンタドールの2人に絞り込まれた。

中央山塊のマンドにゴールする第12ステージで、コンタドールはシュレックを引き離すことに成功したが、区間勝利に固執したばかりにゴール時点ではわずか10秒しか稼ぎ出すことができず。タイム差は再び31秒になった。

そして運命の第15ステージ。ピレネーのポルトデバレスを上る山岳区間がキーポイントとなった。残り21.5km地点を頂上とするカテゴリー超級の峠で、コンタドールはアシスト役のビノクロフとともにシュレックの様子をうかがった。長い峠道で山岳スペシャリストのシュレックに差をつけることは容易ではなかった。

ツールマレー峠

頂上まであと3kmという地点でマイヨジョーヌを着るシュレックのほうが先手を打った。急加速によって一気に差を開く。あわててビノクロフがこれを追う。コンタドールは反応がわずかに遅れた。ところが次の瞬間、シュレックのペースが明らかにダウンした。

「ここだ」とばかりにコンタドールがカウンターを仕掛けた。この時点で総合3位のサムエル・サンチェス、同4位のデニス・メンショフも追従。

シュレックはフロントチェーンリングのチェーンを脱落させていた。あわててしまったのはシュレックだ。一度自分でかけ直すが失敗。再び地面に足をつけて震える手でチェーンをかけ直した。わずか十数秒のことだったが、上りでコンタドールらに追いつくことができず、ゴールまでの下りでも追いつけなかった。シュレックはこの日39秒失った。総合成績は8秒差で2位になっていた。

ゴール後の記者会見に出席したコンタドールは「ここでタイムを稼げたのはうれしい限りだ」と語り始めたが、記者団が「シュレックのメカトラブルは見ていたのか」という質問に、笑顔が消えた。

「見ていない。シュレックがペースダウンしたのは知っているが…」

ホテルに到着して国際映像で流されたそのシーンを見て、コンタドールはさらに青ざめたはずだ。すぐに緊急のビデオ出演。「シュレックのトラブルに乗じるつもりはなかった」と謝罪した。

2010ツール・ド・フランス

マイヨジョーヌが不運で遅れたときは待たないといけないのか?

マイヨジョーヌがトラブルに見舞われ、それで総合優勝の行方が大きく変わっていくという例は過去にもある。今回はまさに大詰めの、それも最大の勝負どころでトラブルが起きた。それはシュレックにとって不運なことだったが、コンタドールのアタックまで否定するものではないというのが、プレスセンターの雰囲気だった。

じつは第2ステージでシュレック兄弟が落車で遅れたとき、メイン集団が彼らの復帰を待ったというのも異例だった。もしこのとき、コンタドールを含めた有力選手がペースダウンに同意しなければ、アンディ・シュレックは大会3日目にして総合優勝争いから脱落していたとしても不思議ではない。

ゴール後は悪態をついたシュレックだったが、コンタドールの対応に翌日には冷静さを取り戻したのはさすがだった。

2010ツール・ド・フランス

コンタドールはこれまで、アームストロングの急先鋒として期待され、人気が高かった。そのアームストロングが失速したことで手のひらを返すかのようにアンチコンタドール化したファンは無情だ。

「精神的には昨年よりもツラい大会だった」とコンタドールが語った理由は、表彰式で耳に入ったブーイングだろう。

ランス・アームストロングが最後のツールマレー峠でアタックし、意地を見せた

第97回ツール・ド・フランス。新城に幸運の女神はほほえんだか?

「逃げます!」と宣言するのは簡単です。でも実際にはとんでもなく難しいことなんです。簡単にできることだったら、さっさとやっています。

国際映像に向かって手を振ったり、沿道の日の丸にこやかにほほえんだりしながらも、新城幸也は苦悩していた。だってツール・ド・フランスには21の白星しかないからだ。そのなかには個人タイムトライアルがあり、さらに急峻な山岳ステージを差し引くと、新城のようなアタッカーが勝負できるステージは片手の指の数ほどしかない。

数少ないチャンスをいかにものにするか。ずば抜けた実力とともに、そのときの運も味方につけなければならない。

2009年のツール・ド・フランスに初出場した鉄馬(カミンマ)こと新城は、マスドスタートの最初のレース、つまり大会2日目の第2ステージでいきなり区間5位に食い込んだ。世界中が驚いただろうが、取材歴が20年以上になるボク自身もビックリした。

当然のように日本のファンの期待は一気にふくらんだ。「出場するからには勝ちにいかなきゃ意味がない」と意欲を語る新城の表情に、心の中ではプレッシャーにもなったはずだ。

新城幸也のチームジャージにはエリとソデに元日本チャンピオンの誇りを配置

昨年の経験があるので、23日間のペース配分がわかっているのが強み。

複線は5月のジロ・デ・イタリア。距離162kmで行われた第5ステージで新城は15km地点で単独アタック。これに他の3選手が追従してゴールまで逃げまくった。途中で1選手が脱落すると、数にものを言わせた後続の大集団が残り1kmで3人を飲み込もうとしたが、ここから新城が起死回生のスパート。大集団からまんまと逃げ切った。

空気抵抗の大きい先頭を突っ走ってゴールを目指した新城は、最後にパワーを集中させることができずにクイックステップのジェローム・ピノーに優勝をさらわれ、3位となる。

「悔しい。こんなチャンスは二度とないかも知れないのに。日本のみなさん、ごめんなさい!」

この年のツール・ド・フランス開幕時、「ピノーに会ったら両手を差し出して、なんかプレゼントはないの?って言うんだ」と新城は冗談っぽく語っていたが、そのピノーには貴重なアドバイスをもらった。

「ああいう無謀なアタックを20回やって、1回勝てたらもうけもの。ツール・ド・フランスとはそういうものさ」

新城幸也が2年連続でシャンゼリゼに帰ってきた

目立つことだけでなく、キッチリと仕事をこなす

チームはスプリンターとしての新城の実力を高く評価している。それでも本人は全面的にスプリンターであることを否定する。「スプリンターは最後の勝負まで静かにしていなければいけない。おとなしくしているのは退屈で好きじゃない。アタックしたほうが楽しいじゃないですか」

ツール・ド・フランス2回目の休息日にて。日本人記者が集まった記者会見もリラックスして臨めるようになった。これも2年目の実績である。

2年連続出場を決めた新城は、2009年以上に総合力を高めていた。第11ステージでは区間6位。それ以外の平たんステージでもトップが見えるところで勝負に加わった。すべてスプリンターとしての実績だ。

しかしアタッカーとしての新城はヨーロッパの列強に封じ込められたと言っていい。

「ツール・ド・フランスのようなメジャーレースが、スタート直後の1回のアタックで決まってしまうのは絶対におかしい!」

新城がいつもとは違う口調で吐き捨てたことがあった。

つまり自転車レースというのは駆け引きや心理作戦があり、総合成績と区間勝利が同時進行で展開していく複雑さがあって興味深いのだと。それが序盤の単調なアタックで決まってしまうのは我慢ならないということだ。

その一方で新城が前に出ようとしたときには封じ込められる。「日本人に勝手なことをされては困る」という意志があるかのようだ。

それを打ち破るのは容易ではない。次は果たせなかった一発勝負を。そして5年後には総合優勝を争うオールラウンダーに。夢が夢でなくなる時代は確実に近づいている。


ツール・ド・フランスの歴史は講談社現代新書のKindle版にしっかりと書いてあります。

【ツール・ド・フランスリバイバル】
2009年に戻る≪≪≪  ≫≫≫2011年に進む

🇫🇷ツール・ド・フランス2020特集サイト
🇫🇷ツール・ド・フランス公式サイト

コメントを残す