第107回ツール・ド・フランスは9月3日、ルテイユ〜モンエグアル間の山岳を走る191kmで第6ステージが行われ、カザフスタンチャンピオンのアレクセイ・ルツェンコ(アスタナ)が第1集団から終盤に単独で抜け出し、初優勝を挙げた。
総合成績ではミッチェルトン・スコットのアダム・イエーツ(英国)が首位を守った。
ツール・ド・フランスでステージ勝利のために戦う目標を持っていたというルツェンコ。
「ツール・ド・フランスは今シーズン最大のゴールの一つだった。私は長い間この勝利を夢見ていたし、今私の夢が実現した」
第6ステージは過去にルツェンコがステージ優勝とともに総合優勝したレースと似ていた。ただしルツェンコにはエースであるミゲルアンヘル・ロペスのアシストとしての使命もあって、すでにその仕事を果たしたゆえに総合成績からは大きく遅れていた。
「今日はステージの前に、この日の戦術について、スポーツディレクターとゼネラルマネージャーのアレクサンドル・ビノクロフと検討した。フィニッシュまで単独で行くチャンスがあるので、第1集団に加わったらうまく休憩を取ろうと決めた」という。
一日中かなりいい感じで、足はかなりうまくいった
この日の第1集団がメイングループから脱却するのに時間がかかったが、最終的に成功した。まんまとルツェンコはここに加わることができたのだ。
「長くて暑い日だったが、後ろの車に乗っていたアレクサンドル・ビノクロフにステージを通して本当に素敵に導かれた。最後の登りで、私は落ち着いて、自分のリズムを保つようにした。そして最も難しい部分で、自分自身のなかで攻撃をした」
「この勝利にとても満足している。それは私にとってもチームにとっても大きな成果だ。また、カザフスタンのナショナルチャンピオンジャージで勝つことは素晴らしい気持ちだ。この素晴らしい機会を与え、長年にわたって私たちをサポートしてくれたすべてのスポンサーとメインパートナーのSamruk-Kazynaに感謝したい」
同じ三大大会でありながら、ツール・ド・フランスはジロ・デ・イタリアやブエルタ・ア・エスパーニャと比べると、区間初優勝者が誕生することが極端に少ない。今大会も第5ステージまでは過去に勝利経験があるエース選手のみ。世界中が注目される大会では、実力者で勝利をねらっていくのが常套作戦なのだ。
カザフスタン登録のアスタナのエースはミゲルアンヘル・ロペス(コロンビア)だ。ただしこの日はルツェンコが最も得意とする、難易度が低いながら登り切ってゴールする舞台設定。そしてルツェンコは、前日まで5分50秒も遅れていた。
総合成績が下位ならスタート直後のアタックも容認される可能性が高い。そしてルツェンコが第1集団に加われば、エースのロペスが大集団の中で楽に走れる。チームのビノクロフ監督が描いた作戦だ。これがまんまとハマった。
終盤の上りで得意の走りを見せつけて独走となったルツェンコは、追走するチームカーの監督を振り返って勝利の合図を送る余裕すらあった。カザフスタンチームの、自国の王者が勝利を挙げた。
●4賞ジャージ
■マイヨジョーヌ(個人総合成績)アダム・イエーツ(英国、ミッチェルトン・スコット)
■マイヨベール(ポイント賞)サム・ベネット(アイルランド、ドゥークニンク・クイックステップ)
●マイヨブラン・アポワルージュ(山岳賞)ブノワ・コズネフロワ(フランス)(フランス、AG2Rラモンディアール)
□マイヨブラン(新人賞)タデイ・ポガチャル(スロベニア、UAEエミレーツ)
【もの知りコラム】最初からシャンゼリゼにゴールしたわけではない
今でこそツール・ド・フランスのフィナーレは、パリのシャンゼリゼだが、世界で最も美しいといわれるこの大通りに選手たちが凱旋するようになったのは1975年からだ。第1回はパリ近郊のビルダブレにゴールした。その翌年から1966年まではパリのパルクデプランスに。現在はサッカーのパリ・サンジェルマンの本拠地として知られるサッカースタジアムだが、当時は自転車競技場だった。
1967年から1974年まではブローニュの森とはパリ市街地をはさんで反対にあるバンセンヌの森にゴールしていた。
現在はノーカーデーなどの催しでシャンゼリゼが全面通行止めになることが多くなったが、かつては年に4回しかなかった。革命記念日。クリスマス、戦勝記念日、そしてツール・ド・フランスのフィナーレの日だ。
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