マルコ・パンターニ。1998年にジロ・デ・イタリアとツール・ド・フランスを連覇したイタリアの山岳スペシャリスト。愛称は「海賊」。アルプスのラルプデュエズでの最速登坂記録のベスト3を持つ。しかしドーピング騒動に巻き込まれて私生活が崩壊。2004年2月14日に34歳で死去した。
最速の山岳スペシャリストのあまりにも悲しい最期
1970年生まれのイタリア人レーサー。172cm、57kg。現役年度は1992〜2003年。スキャンダラスな1998ツール・ド・フランスを救った、愛されるべきキャラクターあった。
同じ年にジロ・デ・イタリアとツール・ド・フランスの両方を制することを「ダブルツール」と呼ぶ。過去に7人しか達成したことのない自転車競技界の偉業だ。タイムトライアルを得意とするオールラウンダーがその名を連ねるのだが、1998年のマルコ・パンターニのみが山岳スペシャリストだ。
個人タイムトライアルの遅れを山岳で取り戻す。それだけ上りは圧倒的な速さだった。パンターニのダブルツール達成はそれまでの常識を覆すほどの衝撃だった。
とにかく伝説に名を残す希有な選手だった。独特の容貌はいつしかスキンヘッド姿がトレードマークとなった。ニックネームは「イル・ピラータ=海賊」。ドロップバーの一番下を持ってダンシングで上るスタイルは真似できるものではない。
しかもメジャー勝利以外は目もくれなかった。ジロ・デ・イタリアやツール・ド・フランスでも最難関のステージだけをねらい、独走でゴールした。イタリアのファンでなくてもその実力にひかれ、世界中に多くのファンを持つようになった。
パンターニの名前が最初に脚光を浴びたのは1994年だ。その年のジロ・デ・イタリアの山岳ステージで区間2勝し、総合成績でもロシアのエフゲニー・ベルツィンに続く総合2位に入る。その年のツール・ド・フランスにも出場し、いきなり総合3位。それに加えて新人賞を獲得した。
「ツール・ド・フランスで久しぶりに勝てるイタリア選手が出現した」とイタリア中が大騒ぎになったのだ。
翌1995年にツール・ド・フランスでスペインの無敵艦隊ミゲール・インデュラインと渡り合う。ステージ2勝と2年連続の新人賞という成績にイタリアファンは満足していなかったが、それでもその将来性は十分だった。ところがそのシーズンの終わりに開催されたミラノ〜トリノで、コースを逆走してきたクルマに正面衝突して大腿骨を骨折。不世出のヒルクライマーは翌シーズンを棒に振った。
しかし海賊の不屈の魂はなえるものではなかった。1997年のツール・ド・フランスでは、最難関のラルプデュエズで圧勝。さらにステージ1勝を重ねて総合3位に入った。
ツール・ド・フランス最高の舞台といわれるラルプデュエズ。ふもとのブールドワザンからゴールまで距離13.8kmの最速記録は、1997年にマルコ・パンターニが記録した37分35秒。平均時速は22km超。しかもパンターニは、1994年に38分、1995年に38分04秒で駆け上がり、当時は1人でベスト3の記録を持っていた。
ちなみに2004年にはラルプデュエズで史上初の個人タイムトライアルが行われた。このときはブールドワザンの中心地からスタートしたので距離は15.5km。米国ランス・アームストロングが39分41秒でトップタイムを記録しているが、序盤の平坦区間のタイムを差し引いてもパンターニには及ばなかった。*後日アームストロングは薬物違反により記録抹消。
自転車競技史上最強の山岳スペシャリストは1998年にジロ・デ・イタリアとツール・ド・フランスで優勝し、選手生活の絶頂期を迎えた。特にツール・ド・フランスではチームぐるみのドーピングが明らかになったフェスティナ事件が発覚した年で、スター性のあるパンターニの優勝という明るいニュースがなかったら、その後の歴史に暗い影を落とすことになったはずだ。
奈落の底に落ちていく。そして壮絶なる最期を遂げる
しかしその後は不運がつきまとった。1999年のジロ・デ・イタリアで区間4勝と圧勝し、2連覇が目前となった最終日前日に、パンターニは血液検査でヘマトクリット値(血液中の赤血球の濃度)が50%を超えたため、健康上の理由で出場停止処分を受けてしまうのだ。
本人は一貫して否定したが、2001年に薬物使用疑惑で2年間の出場停止を通告された。さらには自動車事故を起こすなど私生活でもトラブル続きで、心療内科にも通った。才能に恵まれたはずのレーサーが活躍の場を失ったことで精神的に打ちのめされたのは明らかだった。
2004年2月15日、イタリアのリミニにある滞在型アパートの一室でパンターニが床に倒れているのを発見された。すでに手遅れだった。司法解剖の結果、前日の14日に死亡したこと、脳と肺に水腫があったことが明らかになり、死因はコカイン摂取過多と報じられた。遺体は故郷チェゼナティコに運ばれ、18日に地元の教会で葬儀が行われた。自転車のみならずサッカーやスキー界の著名選手が集まり、冥福を祈った。
「ボクは完全に孤立している。みんなドーピングに関して疑いのまなざしを向ける」という走り書きも見つかった。アパートではチェックインしてから死亡するまでの5日間、食事以外は部屋に閉じこもりがちで、外部との接触を嫌っていたという。
「彼はスポーツ界や友人から漂流してしまった。みんな彼を助けたかったが、それは拒絶された。彼にどんな葛藤があったのかは想像すらできない」とライバルだったアームストロングもコメントした。
それでもパンターニの人気は現在でも絶大だ。ジロ・デ・イタリアの沿道はもちろん、ツール・ド・フランスでもパンターニの名前が路面にペイントされているのを今でも目撃する。あまりにもドラマチックな走りを見せつけたスーパーヒーローは、あっという間にファンの目の前から消えてなくなった。